憑依奮闘記2 エピローグ
2009-07-11
「これは……」
深遠たる闇を連想させる黒の世界の只中で、初めてその青年の姿をクライドは見た。 ここはいつも稀に見る夜天の書の夢世界。 見渡せば動かないザフィーラの姿があり、戸惑った顔のシャマルがどこか震える様子で中心に立つ管制人格の少女が見つめていた先に視線を向けている。
その視線の先にいるのは、鎖で雁字搦めにされたような黒の青年だ。 ミッドチルダでも珍しい部類になる黒髪を適当に伸ばしたまま、そいつは穏やかな寝顔を晒しながら虚空にいる。 だが、その顔が余りにもクライドには見覚えが有りすぎた。
「まさか、俺? いや、クライド……エイヤルなのか……」
その瞬間、ザザァっとノイズがクライドの視界を揺らす。 途端に、世界が0と1の羅列に堕ちそうになるのを、クライドは歯を食いしばって耐える。 自分は今、きっと視てはいけないものを視ている。
(――違う、今まで見えなかったものが視え始めただけ……か?)
頭が変になりそうだった。 何故か、吐き気までしてくる。 0と1が形を成して眼で見える映像を作っているのか、それとも映像が0と1に分解されて見えているのか、それさえも分からない。 現実感が喪失し、その0と1が世界なのか、それとも世界が0と1かさえも曖昧になって理解できなくなっていく。 身動き一つとれず、肩膝をついた状態でしかしそれでもクライドはそれを視続ける。 と、ふと違和感を感じた。
「シャマルが……動いている?」
今まで、この空間の人間が動いたことなどなかった。 リインフォースも、ザフィーラも、シグナムもヴィータも動かなかった。 だというのに、彼女だけがおっかなびっくり動いている。 そして、空中に浮かぶ鎖で雁字搦めにされた”クライド・エイヤル”に向かって何かを喋っている。
声は聞こえない。 リインフォースのすぐ左側にいるクライドなら、普通に喋っているのなら声ぐらい聞こえそうなのに、シャマルの声が聞こえない。
「――シャマル!!」
大声でクライドが叫ぶが、クライドがシャマルの声を聞けないように、向こう側もクライドの声が聞こえないらしい。 振り返りもしない様子からある程度察したクライドが、なんとか吐き気を我慢しながらも立ち上がろうとする。 どこかグラムサイトにも似た感覚が広がっている。 なんとはなしにソレに気がつきながらも、それをどうにかする術を知らない彼はそのまま体を引きずるようにしてシャマルの方に歩いた。 声が聞こえなくとも、こちらから見えるのだとしたら向こうからも見えるかもしれないとクライドは思ったのだ。
「鬱陶しい……一体、なんなんだこれは……」
歩くのに億劫になったクライドが飛行魔法を展開しようとしたが、魔法を発動させることができずに思わず倒れた。 一気に自分の体の感覚が持っていかれた。
「くそ、魔法が使えない」
しばらくそのまま蹲ったクライドだったが、なんとか少し持ち直したので再び立ち上がって歩きだす。 その間にシャマルは魔法を展開し、空に浮かぶ青年を縛る鎖を外し始める。
その瞬間、クライドは致命的な悪寒に襲われた。 0と1の世界に落すノイズが、更に激しくなって視界を揺るがす。 気のせいか、世界が0と1に堕ちるだけではなくて視界さえも暗くなってきている。
(あの鎖……なんだ? まさか、俺と関係があるのか?)
「シャマルタイム。 待って、マジで待って。 それ外すととんでもないことになりそうな予感がするぞ!!」
しかし、シャマルには当然クライドの言葉は通じない。 むしろ、さらに積極的に鎖を大胆に外していく。 どこか焦った様子なのが気になるところだが、何故彼女がそういうことをしているのかさえ分からないクライドにとっては、気が気でなかった。 少しずつ視界が消えていく。 ノイズに犯された世界が、暗黒の世界よりも更にどうしようもない無へと帰ろうとしている。 いや、それはきっとクライドの勘違いだった。 何故ならそれは、世界が無へ帰ろうとしているのではなくてクライドがそこから消えようとしているからだった。
やがて、立つことさえできなくなったクライドはそれを知る。 見えない床に倒れこみそうになるのを両腕で踏ん張ろうとしたとき、自分の腕が無いことに気がついたのだ。
「なんだこれ……やぺぇ、マジであの鎖は俺と何か関係があるのか……」
(シャマルが両腕の鎖を外した瞬間には、自分の両腕がなくなった。 じゃあ、全身の鎖を外したら一体どうなる? まさかとは思うが、もしかして今ここにいる俺も一緒に消えるのか?)
「わ、訳が分からん……仮にアレが本物のクライド・エイヤルだったとしたらあの鎖は当然闇の書の束縛<魔力侵食>か封印か何か……だよな……じゃあ、俺は……え? ちょ、まて……じゃあ俺は……」
焦りながら考えもしなかったことに思考を飛ばす。 だが、結局何が何だか分からない。 そして、そうこうしている間についにシャマルが全ての鎖を外してしまった。
(……やべ、マジ消え――)
思考もノイズも体も感覚も、それら全てが消えてなくなる。 そこにいたはずの、クライドは何も理解できずにそのまま跡形も無くなって消え、そして同時に虚空にいたはずのクライドも消えた。
「うぉ!?」
目が覚めたら、世界が地震でも起ったかのように激しく揺れていた。 クライドは首を傾げながら、理解不能な世界を眺める。 と、揺れに足を取られ無様に床に転がった。
「こ、これは一体どうしたことだ?」
デバイスが無い。 アーカイバも、ブレイドもマジックガンも無い、そして何故か服も無い。 どういうわけか完全に無装備だった。 気が動転したままツールボックスを探してベルトの辺りを見る。 しかしやはり、そこにはあるはずのものはなかった。
「ない、無い、ナイ!? 一番無いとヤバイもんが無い!!」
とりあえず全裸でいる理由もないためバリアジャケットを羽織りつつ、揺れ動く地面に這い蹲るようにして周囲を目視で観察する。 すると、足元にそれはあった。
「良かった、こいつの中にあいつらがいるんだからな。 無くしたら洒落にならん」
安堵のため息をつきながら、冷静に記憶を探る。 すると、ここは時の庭園で間違い無いはずだった。 何故揺れているのかはすぐには分からなかったが、次元空間にある庭園が震動するなんてことから考えると、答えは一つしか浮かばない。 グリモア君モドキとドクターの会話を思い出せば答えなど分かりきっていた。
(逃げないとやばいな。 しかしグリモア君はどこにいったんだ?)
自分を置いて彼女が逃げたのかと一瞬思ったが、そんなことは想像できない。 自惚れかも知れなかったが、絶対に想像できなかった。 そこまで考えると、クライドは弾かれたように空を飛んだ。 向かうのは螺旋階段ではない。 奥の部屋だった。 グリモアの力を借りた飛行速度と比べると欠伸が出るほどに遅い。 思わずエンジンが止まった飛行機にでも乗っているように感じてしまう。
玉座の間にいる。 ということは、螺旋階段から一度引き返してここにきたということだ。 通り過ぎただけかもしれないが、自分を置いていくとは思えないのでもしかしたらまだ一人で戦闘をしているのかもしれない。 デバイスが手元に無いことが悔やまれる。 いや、まだあったか?
「くそ、寝起きのせいで頭が回らん」
ツールボックスを漁ると、マジックガンがあった。 それを展開し、感応制御でレーダーを展開。 と、奥の部屋の方で何かが反応していることに気がついた。 奥の部屋に入った瞬間、クライドは顔を青ざめさせた。 そこには二人倒れていた。 一人は胸部をぽっかりと抉り取られたようなグリモアであり、もう一人は下半身が無いグリモアだった。 レーダーが反応しているのは、下半身が無いほうだ。
恐る恐る近づく。 と、その瞬間クライドは駆け出した。 クライドには一目で分かったのだ。 うつ伏せになっている方が本物のグリモアだと。 三年で培った絆が、そこには確かに存在していた。
「グリモア君、しっかりしろ!!」
這ってでも進もうとしたのか。 だとしたらこんなになるまで戦ったのだろう。 たった一人で。 あの強大が敵と。 仰向けにして、抱き上げる。 すると、しばらくしてなんとか反応を返してくれた。
「……室長?」
「ああ、そうだ。 俺だ!! 一体何があったんだ? 身体は大丈夫なのか!?」
「……無事、とはいえませんね。 魔法は発動不可能。 両手も動きません……多分、ボクは長くはもちません。 逃げてください、室長。 ここはもう、危ないですよ」
所々で、声が掠れた。 話をするだけでも辛いのかもしれない。 急いでグリモアの身体を抱き上げる。 上半身しかないその身体の下から、ドロっとした液体やら配線やらが見えた。
「いくぞ、グリモア君。 大丈夫だ、足が無かろうとが手が無かろうが魔法が使えなかろうが、君はずっと俺の助手だぞ!! だから、絶対にまだ逝くなよ? 俺はデバイスマイスターだ。 室長だぞ? ちょっと時間がかかるかもしれんが、絶対に治してやる!!」
そういうと、クライドは一も二も無く飛んだ。 脱出しなければならない。 なんとか外に出て次元転移で逃げるのだ。 もう、ここに残る理由なんて無いのだから。 クライドは今、焦っていた。
憑依奮闘記2
第二部「黒の青年と紫銀の助手」
エピローグ
「彼らの事情」
ボクの思考が停止したのは、もしかしたら一瞬だったのかもしれない。 まだ、辛うじて命は繋がっていた。 でも、どうしても身体は動かない。 もはやどうすることもできない状態という奴だった。 ジュエルシードによる時の庭園を基点とした次元断層エネルギーの解放、そして次元震の発生。 この震動もはそれが理由なのだろう。 この程度の震動、いつもなら大したこともないだろうに、今日に限って言えば最悪だった。 そもそも、ボクは精密機械なのだ。 ノイズとエラーが絶え間なく襲い、更に物理的な衝撃がそれを更に誘発する。 これは一体どんな苦行なのだろうか。
それでもまだ生きていられる自分をボクは少し褒めてやりたい。 ご褒美は何が良いだろうか? やはり、ここはあれだろう。 我がマイスターにしてボクの未来の旦那である彼がやってくるなんてよく在るストーリーが欲しいかもしれない。 ソレが駄目なら、せめて彼の隣で死にたいものだ。 長い間融合したままでいたのは最悪それでも良いか、なんて思っていたからだ。 我ながら病んでいる。 死後の世界まで着いていきたいなんて、そんな乙女チックなことを考えていたのだから。 これも、遠い昔にアルシェから受けた英才教育のせいだろうか? やはり、少女コミックの熟読を強要させられた成果が出ているらしい。
ああ、それにしても何もできないというのは本当に苦痛だ。 魔法は使えそうにないし、ほとんど虫の域。 せめてもう少しでも右腕が動けば良いのに。 このポンコツめ。
「グリモア君、しっかりしろ!!」
少し、驚いた。 どうやら、室長が助けに来てくれたらしい。 だが、どういうわけだろうか? 彼の姿が見えない。 彼の腕に抱きかかえられているらしいということは分かったが、彼の姿がボクには見えない。 いや、もしかしたら目が見えなくなっているのかと思ったが、違う。 視界はまだ正常だ。 狂ってはいない。 だが、肝心の室長の姿だけが見えない。
「……室長?」
「ああ、そうだ。 俺だ!! 一体何があったんだ? 身体は大丈夫なのか!?」
もしかして、幽霊なのだろうか? 非科学的なことを考える。 とはいえ、幽霊だろうとなんだろうと相手が室長ならそれも良いかなと思う。 何せ、非常識な男だ。 幽霊でもなんでも構うまい。 それにこれがボクの夢である可能性は否定できない。
走馬灯か? だとしたら、ボクの進化はもはやそういうレベルにまで達しているということなのか。
「……無事、とはいえませんね。 魔法は発動不可能。 両手も動きません……多分、ボクは長くはもちません。 逃げてください、室長。 ここはもう危ないですよ」
幽霊が次元震動やらで死ぬかはわからないが、ここに居ては危険だろう。 忠告する。 本当はずっと一緒にいて欲しいのだが、さすがにそれを望むべきではないだろう。 ……アレ? 少しずつ室長の顔が見えてきた?
「いくぞ、グリモア君。 大丈夫だ、足が無かろうとが手が無かろうが魔法が使えなかろうが、君はずっと俺の助手だぞ!! だから、絶対にまだ逝くなよ? 俺はデバイスマイスターだ。 室長だぞ? ちょっと時間がかかるかもしれんが、絶対に治してやる!!」
室長は焦りながらそう言うと、ボクを抱えたまま飛んだ。 驚くべきことに、目の前の室長は少しずつ実体を得て行っているように視える。 時折、ノイズのようにブレたりしながら、それでもしばらくして完全に室長になった。 何故か、そのノイズが数字か何かに見える。 本当に、彼はよく分からない男だ。 もしや、人間でさえなかったのだろうか?
だが、そんなのは別にどうでも良い話だった。 今こうしてボクのピンチに駆けつけてくれて、こうしてしっかりと抱きしめてくれている。 抱き返せないのこのポンコツな腕が憎い。
玉座の間を越え通路を飛ぶ。 震動に耐え切れなくなったのか、天井から次々と崩落が始まっている。 いや、それだけではない。 少しずつ、床の下が黒い空間に侵食されている。 虚数空間だ。 アレに飲み込まれれば恐らくは二度と戻ってはこれないだろう。 少なくとも、ボクは機能停止を確実にするだろう。 現状維持を持つ室長ならば次元空間活動用のジャケットを纏えば数日は生き延びられる可能性もあるが、それでもそこまでだろう。 そこから出る手段が室長には無い。
「気をつけてください、落ちたら二度と戻ってこれませんよ」
「ああ、初めて見たぞ。 これが虚数空間って奴か。 噂ではここからアルハザードに行けるらしいが……最悪、行ってみるか?」
苦笑しながら言う。 だた、目は笑っていなかった。 もしかしたら、それでも良いかもしれないと思っているのだろうか?
「場所が分かりませんよ。 それまで持つとは思えません」
「だろうな。 ちくしょう、カグヤの奴が気がついてくれればいいんだが……」
そもそもこの庭園は年代物だ。 このレベルの震動にどこまで耐えられるのか分からない。 シリウスが助けてくれるというのであれば楽で良い。 が、さすがに聖王相手では厳しかったかもしれない。
「いよいよ、やばくなってきたな」
「……」
右に左に瓦礫をかわしながら飛行を続ける。 螺旋階段まであと少しだ。 だが、無常にもその手前で通路が押しつぶされた。
「――たく、ついてない」
マジックガンを構え、瓦礫を吹き飛ばす室長。 だが、元々大口径ではないので穴が少し開く程度にしかならない。 すると、室長もそれが分かっていたのか別のものを取り出す。 ワイヤーだ。 室長が作っていた妙な武器だ。 何もくっつけていないワイヤーとかなりの数のマジックガンのマガジンをくっつけたワイヤーとを結ぶ。 焦っているのか、少し時間がかかった。
「本当はな、これは爆導鎖みたいな武器として使おうと思ってたんだ」
空けた穴にワイヤーを無機物操作の要領で操作、侵入させる。 そうして、少し離れた位置に陣取ると、バリアを這って室長はそれを起爆した。 連鎖爆破されたマガジンの破裂音と、穴から噴出す青の魔力爆発光。 だが、可笑しい。 ただ魔力を爆発させるにしても、あの魔力量は室長には制御できないはずだ。 魔導砲とは違うはずなのだけど……。
「……今の現象は? 普通の爆裂魔法じゃあありませんね」
「ワイヤーに接続した全カートリッジの魔力を強引に暴走<オーバードライブ>させた。 苦肉の策だが、まぁ、破壊力は折り紙付きだ。 暴発させてその余波でダメージを与えようって考えていたんだが……まだまだ効率が悪すぎるな。 無いよりはマシ程度に考えてたんだが……、今度はもっと効率の良いやり方を研究しておかないとな」
穴の方を見てため息を一つ。 いい感じに瓦礫を吹き飛ばしたところは良い。 だが、それは吹き飛ばした部分だけで、その奥がもう完全に塞がっていた。
「ブラストバレット!!」
ヤケクソ気味に室長が爆裂魔法を叩きこむ。 だが、壊すと上からすぐに瓦礫が落ちてきてすぐに埋めてしまう。 ここからはどうやら出られそうにない。
「ええい、最下層から回るしかないか」
口惜しそうに瓦礫で埋まった通路を睨みつける。 相当に悔しそうだ。
「遠回りになるが、最下層の方から行くぞ。 運良く底が抜けてたらそこから脱出できるかもしれん」
ボクを心配させまいと言ってくれたのか、それとも自分に言い聞かせるために言ったのか。 いや、その両方かもしれない。 再び飛行し、瓦礫を避けながら進む。 必死な顔で飛ぶ室長の額には、はっきりと汗が浮かんでいた。
「室長、こんなときになんですけど提案があります。 逃げ切ったら二人でお店を開きませんか?」
「店……一体何の店だ?」
「そりゃあ決まってますよ。 室長が開くんですからデバイスの店以外にはないじゃあないですか。 オーダーメイドの店を二人でやりましょう。 小さな店から初めて、少しずつおおきくしていきましょうか……ハンドメイドのお店です。 ボクは売り子とか帳簿とかやりますから、室長はお客さんの注文の通りの奴を作ってください」
「はは、それは楽しそうだな。 場所はどこの辺りだ?」
「ヴァルハラのストラウスの敷地を借りましょう。 フリーランスの魔導師たちのデバイスの手入れなんかも出来るようになったら、少なくとも食べていくぐらいは稼げると思います」
「ストラウス……ミッドガルズの女社長か?」
「はい。 知り合いですから、ちょっとは融通してくれると思いますよ。 基本的に彼女は仕事の虫ですから、少し交渉する必要はあるかもしれませんけど根はいい人なので、なんとかしてくれると思います」
最悪、ボクが着せ替え人形にでも成れば良い。 あの趣味はまだ健在のはずだ。
「そいつは良い。 安定して稼げそうだ。 老後は安泰だな。 しかも死ぬほどデバイスを弄れるというわけだ。 スクラップを漁れないのは残念だが、この際文句は言うまい。 管理外世界のデバイスとやらにも興味はある。 基本は同じだろう?」
「恐らくは。 ただ、少しは勉強する時間はいるかもしれませんね」
「安心してくれ。 デバイスのことなら俺は次元世界の垣根を越えて人類は分かり合えると信じている」
心底そう信じているのだろう。 頼もしい笑みが見えた。 いつもの室長の顔だ。 ああ、安心できる。 少し余裕が表情に戻ってきた。 もう随分と彼には頭を悩まされてきたけれど、結局それほどボクの心は彼のせいで揺さぶられていたわけだ。 そう考えると、どこか憎めなくなってしまう。 楽しかったのだろう。 満たされていたのだろう。 あの研究室での日々が。
もしかしたら、あの二人と同じようにボクは成れていたのかもしれない。 ジル<室長>とアルシェ<ボク>。 あの頃の二人のように。 ボクたちの場合はボクの一方通行だったのかもしれないけれど、それでもあの二人とはまた違った良い関係で、それでも良くやっていけていたと思う。 稀にお邪魔虫<あの女>が冷やかしにきて、室長が右往左往して、ボクがブラックコーヒーで涙目にさせながら追い返す。 或いは、ボクが人間だったらまた違った結果が出たのだろうか?
あの女よりも早く彼に出会って、その内現れるあの女を妨害しながら奮闘するボク。 名家の出だろうがなんだろうが、多分ボクは一歩も引かないで張り合うのだ。 おそらくボクはそこでも追う側なのだろう。 室長は追わない。 きっと彼は追う人では無いのだ。
追い方を知らないのか、単純にその気が無いのかはわからない。 いや、違った。 単純にこの人はヘタレストだったのだ。 変なところで頑固になって格好つけようとする。 ならばこちらは、そこら辺を生暖かい目で眺めながら包み込んでやれば良い。 身動きができないぐらいに、目を背けられないぐらいに。 ある意味では戦いなのだろう。 この人を落とすのは。 決してこちらから隙を見せてはならない。 辛抱強く耐え忍び、隙を突いて捕獲しなければならない。 珍獣と同じだ。 しかも、生半可なトラップは効かずに全て直球で勝負しなければならない。 実に手強い。
「では頑張って店をやりましょうか室長。 新婚夫婦の開いた店だと評判になるぐらいに」
「わーっつ。 ちょっと待ってくれグリモア君。 油断も隙も無く俺の未来をまた……」
「……どうかしましたか?」
「いや……そうか。 そうだな。 いい加減、俺はもうこういう態度を改めないといけないのかもしれんな」
自嘲しながら、疲れたように言う。 その声色がどこかボクの胸を締め付ける。 それは、一体どういう考えによってもたらされた結論なのかなんてボクには分からない。 きっとずっと、理解はできないのかもしれない。 未来永劫、そうなのかもしれない。 けれど、それでも本気でそう思ってくれているのだとしたら、それはとても嬉しいことだったに違いない。 勿論、これがその場限りの思いつきではないことを祈る。 でも、どうせならもっと胸を張ってそう言って欲しいと思うのは欲張りだろうか?
――視界のノイズがいよいよ致命的になる。
視界がブラックアウトした。 その癖、エラーは絶えずボクの頭を埋め尽くしていく。 煩い、室長の声が聞こえ難いじゃあないか。 ええい、引っ込め。
「……グリモア君? どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません」
「そうか?」
「……お?」
お? なんだろうか?
「なに? 助けたいかだと? 当たり前だろうがトール!! こんなときにもったいぶるな!! ああ? 代償? いいから、後で何でも払ってやるから早く教えろ!!」
「……トール?」
その名前は覚えている。 ジル・アブソリュートの作ったデバイスのAIの名前だ。 ボクの魔法はそのデバイスになんとなく与えられたものを原型としている。 でも、何故今になって彼の名前が出てくるのだろう? まさか、本物の”トール”が出てくるなんてことはあるまい。
と、しばらくしていると室長の声まで聞こえなくなった。 その代わりに、何者かがボクにアクセスしてきた。 驚くべきことに、このボクに対してハッキングを仕掛けてきている。 抵抗する余裕がいまはない。 その後、しばらくしてボクは完全に機能停止した。 そこから先、何があったのかなんてボクは知らない。
――そして、それから二年数ヶ月の時が経った。
深夜だった。 恐らく、彼女はこんなことが来る日など終ぞ考えていなかったに違いない。 確かに、やろうと思えば可能性はあったかもしれない。 だが、それができる人間がいるなど想像もしていなかったのだろう。
いきなり彼女の友人のジル・アブソリュートが消え、第六層はまとめ役の賢者が居ない階層となった。 一応ストラウスが面倒をみているが、当分は空席のままだろう。 そして、それを契機として彼女はジルの情報網の引継ぎとシュナイゼルの追跡を一人で続けていた。 成れない仕事が増えたせいで、少しばかり就寝時間が減っていた。 だが、泣き言一つ言わずには彼女はそれを続けている。 別荘とジルの研究室を行き来しながらの仕事は面倒くさいことこの上なかった。 長らく愛用しているベッドがさらに気持ちよいと思えるほどに。
「……」
その気配を察知した瞬間、目を覚ました彼女は無言でベッドから状態を起こした。 その手には既に刀が握られている。 紅眼がそれを確認した頃には既に刀身が鞘走っていた。 情け容赦の無い居合いが虚空を飛ぶ。
「――ぬぉ!?」
人間を確かに両断した感触が手にはある。 だが、不思議なことにその人間は生きていた。 両断した感触はあったが、血一つ巻き散らかさずに斬ろうとした物体諸とも背後の壁に吹き飛んだ。 彼女はとりあえず刀を鞘に仕舞うとパジャマ姿のままでつい今しがた切り捨てた物体に目を向ける。
男だった。 黒髪黒瞳にそこそこ鍛えられているような気がしないでもない体を持つ男が、何故か全裸でそこにいた。
「……」
困惑するよりも先に、目に入ってきた物体に向かって刀が飛んだ。 男は悶絶しながら信じられない目で彼女を見る。 更に、そのまま想像を絶する痛みを表現するかのように転げまわりつつバリアジャケットを展開した。 まあ、それならば確かに見苦しくはない。 だが、問題はそこではない。
「……斬れてないわね? ……手加減しなかったつもりなんだけど」
「斬るな!! そしてその度し難い変態を見たような侮蔑の視線を俺に向けるな!!」
「……いつから貴方はこの私に斬れないほどの身体を得たのかしら?」
「た、タイム!! タイムだカグヤ。 落ち着いて話し合おう。 話せば分かることもあるかもしれん!!」
「まぁ、どうでもいいけどその後ろのそれは一体どういうつもり? 真逆、私を主にするために現れたわけではないでしょうね?」
「あー、こいつか? あんたの寝室に来たのは多分トールのせいだと思うぞ。 あいつが知り合いのところに送ってやるとか言ってたからな。 ……ん?」
光が洩れた。 薄暗い室内の闇を切り裂いて魔法陣が展開される。 その中から人影が現れる。 それは、五人の騎士だった。 カグヤの前に現れた五人の騎士が、傅きながら頭を垂れる。 どうみても、カグヤに対して臣下の礼を取っている。 困惑するクライドを他所に、カグヤは警戒態勢を解かない。 特に、その視線は元管制人格の女性に向けられていた。 カグヤの身体が動こうとする。 その絶妙なタイミングで、一人の騎士が立ち上がった。
「えーと、お久しぶりねシリウス」
「……」
「で、できれば警戒態勢を解いてもらいたいんだけど……」
「シャマル、貴女たちは別に見逃してあげても構わないけどその子だけは別よ」
その視線は一度足りともその女性から動かない。 辛うじて理性の鎖で抑えている状態だった。 視線の先にいる女性がゆっくりと面を上げる。 紅眼同士が視線を絡める。 だが、視線を上げた方の女は怒り心頭のカグヤとは対照的に酷く落ち着いた佇まいを見せていた。 酷く温度差があった。
クライドには意味が全く分からない。 そもそも、どうしてこんなことになっているのか? 頭を抱えながらとりあえず不穏当な空気を垂れ流す両者の間に割って入った。
「さ、さっきも言ったが話し合おう。 こいつらだってカグヤとやりあう気はこれっぽっちもない……と思う」
実際そうなのだろう。 剣を構えているのはカグヤだけで、他の連中は誰一人として構えていない。 そんな中、赤毛の少女が首を傾げながら言った。
「……なぁシャマル。 誰が主かわかるか?」
「え? えーと、この場合は……どうなるのかしら?」
シャマルは困ったように周囲を見渡す。 カグヤ、クライド、そして管制人格の女性。 この三人のうちの誰かが主のはずだが、夜天の書は今現在主が誰かなんて認識してはいなかった。
「ふむ、とりあえず目の前にいる少女が主ではないのか?」
シグナムが言う。 だがザフィーラはそれを嗜めた。
「待てシグナム。 守護騎士システムが主を認識していない。 ということは、もしかしてここには主はいないのではないか?」
「じゃぁ一体誰が主なんだよ。 アタシたちは主がいて初めて目ー覚ますんだぞ」
「それは分からん。 転生時に何かシステムに不具合があったのかもしれん」
「あー、なら別にいいんじゃないか? 主なんていなくても。 俺的にはその方が色々と平和で良いと思うぞ」
「ふむ、面白い意見だがそれは駄目だ。 我らには使命がある。 何者かは知らぬが、我らは主を護るためにここにいるのだ。 主はいなければならない」
「……あれ? ザフィーラ、もしかして俺のこと忘れてる?」
「ふむ? すまない、記憶に無い」
「……なんてこった」
クライドは頭を抱えながら呆然とした。 状況は色々とカオスである。 紅眼の二人はお互い睨みあいながら停止しているし、守護騎士たちはシャマルを除いて己の主を探している。 シャマルはシャマルで一瞬即発な空気と困惑する守護騎士たちの間でオロオロとするだけだ。 誰か、全部説明できる奴はいないのか? そう誰しもが思ったときだった。 空間モニターがクライドの前に開いた。
「おはようございます室長」
「おお? 我が助手グリモア君ではないか!! き、傷は良いのか? その、色々と大変な状態だったはずだが……自己修復機能……いや、どちらかといえば自己復元能力か?」
「いえ、そういうわけではないです。 ……なんというか、ボクは今夜天の書の管制AIにされてしまっているんですけど……どうしましょう?」
「はぁ? いや、俺にどうしましょうって言われてもこっちがどうしようか悩んでいるところなんだが……と、とりあえず君の好きなようにしてみれば良いんじゃないか?」
「はぁ……ならそうします。 というわけで、室長を主に設定しますね」
「わーっつ?」
「む? 主が決まったようだな」
守護騎士たちが一斉にクライドの方を見て、頭を垂れた。 紅眼の片割れもそれに習っている。
「ど、どないせーっちゅーねん!! また死亡フラグありな人生に陥るではないか!! 俺はもう嫌だぞ!! 管理局に追われるのも変な連中に絡まれるのも!! 俺はもう絶対に楽隠居する!!」
「「「「……」」」」
痛いほどに生易しい視線が五対クライドに向けられた。 だが、クライドはそんなことでは怯まない。 早速グリモアに色々と状況の説明を頼み込もうとして、居るはずのない騎士にふと目を向けた。
可笑しい、何故リインフォースがいるのだろうか。 彼女が出現するとき、それ即ち書が完成したときでなければならないはずである。 なのに、何故か初めから当たり前そうな空気を伴ってそこにいた。 ようやくそのことに思い至ったクライドは、混乱しながらも尋ねた。
「グリモア君、夜天の書は今現在どういう状況にあるんだ? 何故かタイミング的に居てはならないはずの人間が居る気がするのだが……」
「どうやらトールにかなり弄られているようです。 声をかけるまで色々と置き土産を確認していたんですけど……えーと……殆ど最初期の状態にまで復元されてますね。 防衛プログラムだけはバグが酷すぎて消去するしかなかったみたいで、今は無限転生機能だけのベーシック状態になってます。 融合機能は……ああ、元々そこにいる彼女の能力だったので彼女に頼めば使えるでしょう。 問題は特にないんじゃないですか? 室長も魔法プログラム化されているみたいですし単純に主は持ち主以上の意味合いはなさそうです。 あ、訂正します。 室長だけ勝手に防衛プログラムに直結されてます。 何故かデータがロックされてるので変更できそうにないですね。 こちらからはアクセス不可能になってます」
「意味が分からん」
「要するに室長は書の持ち主で、そう簡単に消えない存在になってしまったということです。 デメリットはなさそうなので、室長が右往左往する必要は無いと思います。 強いて問題があるとすれば、ボクの身体がアブソーブ<吸収>されて格納放置されてるぐらいですね」
つまりはもう、クライドは人間ではないということでもあった。 とはいえ、クライドはそれを問題としなかった。 とりあえず分かったこともあるが、分からないことも更に出てきた。 だが、今はそんなことは問題では無い。 ニヤリとクライドは唇を釣り上げる。
「……くく、つまり今俺はやりたい放題できるということだなグリモア君」
「一応はそうなりますね」
「ならば問題ない!! 早速夜天の書の解析に入ろう。 こうしてはいられない。 一級捜索指定ロストロギアだぞ!? どれほどの技術がつぎ込まれているのか楽しみじゃあないか!! くぅぅ、夢が一つ叶ったぞ!!」
「データ解析と説明は任せてください。 ええ、いつも通りにお手伝いしますよ」
「しゃー!! レイハさんの前にまずはお前だ『俺の魔道書』め。 その機能、余すところなく白日の下に晒してくれるわぁぁぁ!! はーっはっはっは!!」
高笑いである。 夜天の書に頬釣りしながら、黒の青年は周囲から痛い目で見られていることさえ無視して笑い続けた。 そしたら、うざくなったカグヤが斬った。 だが、やはりクライドは吹き飛ぶだけだった。 バリアジャケットは勿論喪失した。
「嬉しそうなところ悪いんだけど何故私の攻撃が効かないのかしら?」
「この周辺は今絶対領域に侵されてるからな。 誰も通常攻撃では傷つけられんらしいぞ? そのせいで俺の攻撃も誰にも通じないらしいが……」
辺りを見回しながら言う。 とはいったものの、クライドが魔法で簡単に傷つけられそうな奴は誰もいなかった。 シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、カグヤ、リインフォース。 全員格上である。 デバイス一つ携行していない今のクライドにとって、誰かと戦うなんてほとんど無理っぽい状態である。
「……ジルの研究成果を使っているというわけ?」
「トールが使い方を教えてくれたぞ。 まぁ、あの野郎……土壇場で書を自爆させてどっか行きやがったけどな」
「そう……まぁ、いいわ。 とりあえず、バリアジャケットを着なおしてその粗末なものを隠しなさいな」
フンッと鼻で笑うとカグヤは毒気を抜かれたかのようにして戦闘態勢を解除する。 そうして、そのままベッドに戻ると刀を立てかける。 本気で寝るつもりらしい。 クライドは得も知れぬ屈辱を感じながら真っ赤な顔をしてバリアジャケットを着なおす。 そうして、恐る恐る守護騎士たちの方に視線を向けた。
「待て、何故そんなみんなしてあからさまに俺から目を逸らす!!」
「……シグナム、本当にアレでいいのか?」
「むぅ……今までに無い程変態的な主だが……書が認識してしまっている。 私にはもうどうすることもできんな」
「素肌にバリアジャケットって、そんなことする馬鹿アタシは初めてみたぞ。 裸族なのか?」
「え、えーとほ、ほら。 人には一つや二つ言えない趣味ってあるじゃない? きっとそういう人なんですよ」
シャマルがフォローするが、あまりフォローになっていない。
「……とりあえず状況の確認をするべきではないのか? 私はいまいち状況が分からない。 このさい主が露出凶でも素肌にバリアジャケット主義者などという奇特な存在でもどうでも良いだろう。 今後の方針をまず決めるべきだ」
リインフォースはそういうと、怪訝な顔をするヴォルケンリッターをそのままに座り込んでいるクライドに手を差し出した。
「私は前回まで管制人格だったが、今はこうして騎士たちと同じような位置にいる。 説明してくれるかクライド・エイヤルの”中の人”。 貴方のことは前回の主たるクライド・エイヤルから少しは聞いている。 現状、一番事態を把握しているのは貴方だろう。 説明をして欲しい」
「……お前、俺が分かるのか?」
「明らかに貴方は彼とは違う。 身体的特徴は似ているが、ただそれだけだ」
手を借りて起き上がりながら、クライドは初めて彼女と話せたことに感動した。 思わずシェイクハンドをする。 リインフォースは困惑したが、そのまま好きにさせた。
「カグヤ、どうせまだ寝てないんだろ? 適当に部屋を借りるぞ」
「好きにしなさい。 ただし、明日の朝に説明してもらうからそのつもりでいなさい。 ああ、勿論煩かったら斬るわよ」
「……りょ、了解だ」
何か気に入らないことがあるらしい。 言外に機嫌が悪いから起こすな、と感じたクライドは戦々恐々しながら連中を伴って部屋を出た。 ただ、リインフォースだけが一度だけカグヤの方に振り返ったが、カグヤはそれに気づいていながら無視した。
二階の寝室から出てすぐに一階の大広間へと降りた一行はまず状況を確認することにした。 とはいっても、クライドが知っていることは少ないし、グリモアが知っていることもまた少ない。 トールの置き土産にもそれほど詳しいことは書かれていないし、ほとんど夜天の書の現在の状況を示唆することばかり。 ならばと、まずは一行はその情報を共有することにした。
ソファーにテーブルを挟んで六人が語り合う。 実体が無いグリモアだけは空間モニター越しにであったが話し合い参加していた。
「……にわかには信じられない話だな」
厳しく目を吊り上げてシグナムが唸る。 それにヴィータとザフィーラも同じように頷くが、シャマルとリインフォースが事実だと肯定したことで更に混乱をしていた。
「私だけ皆より早く記憶が戻ってるからみたいだからしょうがないけど、全部本当のことよ。 クライドさんは前回の主の、えと……中の人だったらしいです」
「それは私も肯定しよう。 少なくとも私は書が改造されてからの全ての記憶を有している。 守護騎士がクライド・エイヤルという人物に仕えていたことだけは確かだし、前回の主と話してその事実は確認している」
管制人格の少女のことはおぼろげながら守護騎士たちは覚えていたので、すでに受けいれていた。 ただ、元管制人格などという固有名詞で呼ぶのは色々とアレだったので既にクライドによってリインフォース<祝福の風>の名が与えられていた。 本人は別にどう呼ばれても良いと考えているらしく、特に何も言わない。
「とりあえず、俺としてはお前らに蒐集を命じることは前と同じで無い。 だもんで……まずは記憶を取り戻して欲しいんだが……」
「でもよ、記憶を取り戻せって言われてもどうやればいーのかわかんねーよ」
「私の時はシリウスに会っていきなり思い出したから、多分皆にとって強烈な印象を持っている何かと接触すれば良いと思うけど……」
経験者であるシャマルが言う。 彼女の場合は幼馴染であるカグヤをトリガーとして記憶が戻った。 ならば、他の三人についてもその可能性がある。
「そうか、となると……この前皆に馴染み深かった奴と会わせるしかないな。 カグヤに頼んでセッティングしてもらおう。 シグナムはアギト、ヴィータはミーア、ザフィーラは……アリシアちゃんか?」
「ええ、まずはそれでいいと思います。 それで駄目だったとしたらまた別の方法を考えましょう」
「それでけど、どうも彼女たちには記憶を隠し保存統合するウィルスが仕掛けられているようです。 案外身近なことでふといきなり思い出すこともあるかもれませんね」
「でも、いきなり思い出したら状況を理解するまで辛いですけどね……何せ、人間だった頃のデータと守護騎士として生きた記憶が全部戻ってきますから」
「は? ちょっと、待て。 魔法プログラムって人工的に作り出されたものじゃないのか?」
疑問符を浮かべると、クライドがシャマルに問う。 だがそれにシャマルに答える前にグリモアが答えた。
「室長、一から魔法プログラムを作ることはできません。 魔力に蓄積されたデータを元にアルハザードの秘奥を使って顕現させているだけです。 闇の書にはそれが内臓されていますから偶々守護騎士を生み出すことができるのに過ぎません。 多分、これのせいでアルハザードには死者復活の秘法があるなどと世間では言われているんでしょうね」
「ふーん、そうなのかー」
「ですので、そこにいる守護騎士もリインフォース……も皆生前の人間だった記憶があるというわけです。 ただ、本物の人間が生きている場合は偽者である魔法プログラムは絶対に起動しませんから彼らは皆死人というわけですね」
「うーむ、つまりは触れる幽霊みたいなもんか」
「その認識でいいんじゃないでしょうか。 それにシリウスもそうですよ。 あの人も魔法プログラム体です」
「むむぅ、出鱈目だなアルハザード。 さすが伝説に謳われるだけのことがある」
関心しながらクライドは唸った。 シグナムたち三人は更に困惑しているがとりあえず今はその問題を追及するよりも話すことがある。
「で、今後の方針が固まったところでそろそろ次の議題に入りたいと思うのだが、良いだろうか?」
「次の? 主よ、一応もう簡単なことは終わったと思うのだが……」
「いや、まだあるぞザフィーラ。 リインフォースに聞くことがあるだろ」
「私に?」
「ああ、お前カグヤに何かしたのか? ものごっつ睨まれてた気がするんだが……」
とはいえ、リインフォースにも睨まれる理由が分からなかった。 彼女にはそんな記憶が一切無い。 あるのは管制人格として生まれてからの記憶だけだ。 いや、そういえば初回起動時の記憶が無い。 色々と夜天の書は改造を受けているのでそのせいで記憶が抜けているのかもしれない。
「……私には覚えはない。 ないが……私も守護騎士たちと同じだ。 記憶の改竄など簡単にされうる状態にあった。 その中で何かがあった可能性はある。 ……現在の管制AIである貴女に問う。 私は今現在正常なのか?」
「プログラム上での問題は特にありません。 正常稼動中です」
「そうか……」
「ならあいつの話も聞いてみないと分からんな。 とりあえず、全員待機モードで明日まで待とう。 俺は……とりあえずそこのソファーででも寝るから今日は解散ということでかまわないか?」
全員を見渡し、一同が頷いたことで解散となった。
全員が消えた後、クライドは夜天の書をペラペラと捲りながら物思いにふける。 仲が良かったザフィーラたちの記憶が失われたことに対して少しばかり寂しくなった。 だが、まだこれから取り戻せるかもしれないようなので一先ず安心と言ったところだ。
皆が書き込んだはずのページは、しかし全てのページが白で染まっており一文字も文字が書かれていない。 トールのせいで書が自爆転生したことで状態が元に戻ったのだ。 しかも、この状態で完全に起動しているらしい。 この魔道書は単なる大容量魔力ストレージ、通称”資料本”に戻ったというわけである。 グリモアが管制AIとなっている時点でインテリにも近いような感じであったが、区分がロストロギアなのでもうなんでもよいだろう。
いつか自分がやろうとしていたことを横取りされた気分だ。 とはいえ、感謝もしていた。 これで最悪の場合リインフォースを犠牲にするような真似はしなくてもよくなったし、蒐集のために連中が誰かを襲う必要も無い。
クライドは書をテーブルに置くと両腕を枕にしたまま寝転がる。 そして、夜天の書以外のことに思考を向けた。
(『貴方はジル・アブソリュートによって生み出された』……か。 なんだよそりゃ。 じゃあ俺の現実はどこに行ったってんだよトール)
時の庭園でトールに言われたことを思い出しながら毒ずく。 おかしい。 自分と連中の認識が噛みあっていない。 そのことが何か薄ら寒いものを感じる。 一体どちらの認識のが正しいのだろう? クライドは自分をよく分からないうちにクライド・エイヤルという少年に憑依して生きていた人間だと考えていたが、もしその認識が間違っているのだと思うと無性に怖かった。
(”絶対領域”? ジル・アブソリュートの出した一つの研究成果? ふざけるな……さっぱり意味がわからんっつーの)
カグヤの斬撃を無効化した力は今はもう使用していない。 確かに”攻撃を無効化”する力は凄まじいのかもしれないが、こちらからも攻撃できないのであればあまりにも意味が無い。 少なくともまだよく分かっていない段階ではクライドはそう思う。
当面の行動指針は得た。 だがそれは自分の目標ではない。 守護騎士を解放するという目的は達した。 自分の力ではなくても、それは成っている。 後はまぁ連中が好き勝手することができるようにするだけで良い。 問題はその後のことだった。
ドクターの仇はグリモアがとった。 全員ある意味では無事だし『俺の魔道書』は現在クライドの手の中にある。 正直、急いで何かしなければならないこと、というのが無かった。 それにもうミッドチルダに帰ることはできないだろう。 犯罪者であり、死人でもある自分が戻ってもすることがない。 なんともまぁ、手持ち無沙汰だった。
聖王一派などもはや正直どうでも良いし、全ての元凶たるシュナイゼルとか言う奴もクライドにとっては態々喧嘩を吹っかける相手でもない。
唯一の未練であったかもしれないリンディはディーゼルを結局選んでたし、そもそも犯罪者がのこのこ姿を現すわけにも行かない。
「どーすっかなーホント。 夜天の書を弄り倒すにしても、グリモア君の身体を修理するにしてもまず設備がいるしな……」
「室長、ならアルハザードへ行きませんか?」
呟いた独り言に反応し、グリモアが空間モニター越しに顔を出す。 どうやら寝ていなかったようだ。 管制AIが寝るのかどうかは不明だが。
「どうやって?」
「シリウスに送ってもらえばいいじゃないですか」
「ああ、その手があるか」
悪くない案だった。 伝説の都アルハザード。 確かに、そこならば書の解析もグリモアの修理もできそうし、未知のデバイスも山のようにあるに違いない。
「あいつが連れていってくれるかな?」
「彼女が駄目ならヴァルハラのストラウスに頼むまでです。 彼女もアルハザードの関係者です。 なんとかなると思いますよ」
「そうか、なら守護騎士のことがひと段落したらそうしようかグリモア君。 少しばかり楽しくなりそうだな」
ニヤリと笑いながら、クライドは言った。
同時に、ジル・アブソリュートや自分のことについても調べようとクライドは思う。 自分は一体何なのか? その答えがそこに眠っているというのであれば行く価値はある。 ただ、少しだけ何か大事なことを忘れているような気がした。 今のクライドにはそれがなんであったのかが分からない。 その呪いのようなそれは、ずっとこれからのクライドの中に忘れてしまった何かとして残るのだろう。
後悔するつもりは無い。 薄っすらと浮かぶ未練のような感情がある。 自然と頭を過ぎる翡翠の色。 寝返りを打つことで頭に浮かんだ翡翠の女性の泣き顔を忘れるようにしながら、クライドは瞳を閉じた。
世の中にはどうにもならないことが腐るほどある。 これも恐らくはきっとその一つなのだろう、そう自分に言い聞かせるようにクライドは自嘲する。
「……そろそろ寝るわ。 お休みグリモア君」
「ええ、お休みなさい室長」
助手であり己のデバイスでもある女性にそう呟くと、黒の青年は眠りに落ちた。 紫銀の助手はその姿をしばらく眺めてから、空間モニターを閉じる。 リインフォースのことで知っていることをこっそりと話しておくつもりだったのだが、どこか疲れたような顔をしていた青年に無理をさせるつもりはなかった。
あれほどの戦いがあって直ぐの記憶しかない彼にとっては、精神的な疲労が抜けきれていないのだろう。 グリモアもまた空白の時間のせいでまだ色々と落ち着かない。 一先ず諸々の問題が無くなったことで良しとする以外にはなかった。
だが、それだけでも決してない。 恐らくはクライドが感じているだろうこのモヤモヤする感情がなんであるかをグリモアは自覚していた。 ジル・アブソリュートの介入があったことは分かったが、結局それが何のために在ったのかがいまいちピンとこないのだ。
闇の書を夜天の書に戻すためなどでは決してないだろうし、シリウス・ナイトスカイのためにエレナ・ナイトスカイを救うためというのでもなさそうだ。 守護騎士はともかくとして残りの席二つにはどうやら細工は無かったようだし、仮に助けるつもりがあったのだとしたらそれは守護騎士ぐらいだろう。 だが、別段ジルは守護騎士と仲が良かったわけではないはずだ。 人が良いところがあったのでお節介を焼いたところはあったかもしれないが、この可能性は極めて低い。
ならばやはりシリウスのためかとも思ったが、シリウスはあれだけ仲が良かった妹を前にしてはっきりと嫌悪の感情を向けていたから違う気がする。 アルハザードによるベルカ本星消滅の折り、何かが二人の間であった可能性はある。 しかしだとしたらその頃には既にアルハザードからもベルカからも離れていたグリモアには分からないことである。
では、絶対領域の完成のためだろうか? 一番ありえる気もするが、だとしてもどうやってクライドを生み出したのかという問題は消えない。 全てはやはりアルハザードに戻らなければ白日の元には晒されないのだろう。 とはいえ、それが分かったところで特に何かが変わるということもない。 それに、愛用のボディはほぼ大破していたがグリモアには今の境遇への不満がなかった。
グリモアにとってはクライドが魔法プログラムだろうがなんだろうが別段どうでも良いことである。 今、彼女は彼を永遠に閉じ込める器を掌握できる立場にいた。 今は手を出せないかもしれないが、このロックも時間をかければ破れるだろう。 この時点でもはやグリモアはクライドを手に入れたも同然であった。 不満に思う理由がない。
システムの縛りは彼女には効かない。 管制AIにされても、人格データに直結されているマシンハートのプログラムがあらゆる束縛を打ち崩す。 つまり、彼女は真実自分以外に束縛されることはない。 クライドをマイスターに選んではいたが、その気になればいつでもその命令を反故にすることさえできた。 それをしないのは彼女がクライドに味方することを選んでいたからに他ならない。
そんなことを知らない黒の青年は、当然のことながらのんきに寝ていた。 グリモアは一度だけ空間モニターを展開すると寝息をたてている青年に向かって大胆にも宣言する。
「――室長、ボクは未来永劫貴方を逃がしませんよ」
紫銀の助手はいつかのように微笑むと、空間モニターを静かに閉じた。 少しばかり顔が紅かったのはさすがに彼女といえど恥ずかしかったからかもしれない。
無論、その彼女の宣言に黒の青年が気づくことはなかった。