憑依奮闘記 断章03
2010-07-12
「さて……突然で唐突な話なのだが、ヴォルケンリッター<守護騎士>+α諸君にとても重要なお話がある」黒髪のその男は、彼女らをアルハザードの最外装区画にある次元港<ディメイションポート>に集めるやそうのたまった。 待機用のソファーに座った守護騎士たち一同は、その男が余りにも真剣な顔をして言うために思わずゴクリと喉を鳴らす。
無理も無い。 いきなり現れたカグヤに拉致られるようにして半ば強制的に集められたのだ。 緊張するのは当然の話である。
「主クライド。 今回の緊急招集の件、一体どういうことなのだ?」
一同を代表してシグナムが尋ねる。 ヴォルケンリッターのリーダーとして、まず初めに現状の把握に務めるその姿勢にクライドは大いに満足した。
「良い質問だ我が騎士シグナムよ。 俺はこの一月アルハザードを学び、そして気がついたのだよ。 俺は今までなんと”中途半端なことをして満足していたのか”、とな」
「中途半端ってなんだよ。 クライドはいつも徹底的に好き勝手やってるじゃねーか」
これ以上があるものかと、鼻で笑うヴィータ。 しかし、気になるのか腕組しながらもチラリチラリと視線をもったいぶるクライドに向けている。 実に可愛らしいアクションである。
「あの……なにかあったんですか? 私たちを全員招集するなんて今の状態だと、よほどのことが無い限りもうありえないと思ってましたけど……」
「ああ、冗談抜きでやらなければならないことができたんだよシャマル。 このミッションには守護騎士全員を強制参加させることを俺の独断と偏見が決定した。 故に集まってもらったというわけだな」
「ミッション……だと? この面子を集めたとなると、やはりどこかに攻めこむのか? 我らとしては主の命令には従うつもりだが、何をするのかぐらいは説明してもらいたいものだな。 作戦の成功確率を上げるためにも情報の共有は必要だ」
「分かっている。 皆まで言うなザフィーラ。 確かに作戦前のブリーフィングは必要だが、既に全員を集めた以上この作戦は既に成功率八割を超えているのだ。 いや、これから先に協力を頼んでおいたあの人と合流できれば、その時点で九割の成功を確信している」
「……なんだと?」
「そうそう、勿論リインフォースも参加だぞ? 大丈夫、荒事じゃあない。 アルハザードを乗っ取ろうとか、カグヤをボコそうとか、女性陣全員に俺の嫁になれとか、そんな無理難題を吹っかけるつもりは毛頭無いのだ。 しかし、このミッションは我が騎士たちだけにしかできないと俺は確信している」
「一体何をしようというのだ?」
五人の騎士がクライドを見る。 彼に向けられた五対の瞳には、戸惑いこそあれど不満は無かった。 我が騎士にしかできぬというフレーズ。 そこに主からの信頼の念を感じとった一同は、いまだかつて無いほどに気合が入れていた。
「お邪魔しまーす」
「おお、来てくれたかストラウスさん!? で、首尾の方は?」
「問題ないわ。 街中でベルカ式魔法を使ったりして住人に喧嘩を売ったりしないのであれば別に構わないわよ。 流儀さえ守ってくれれば基本的にはアルハハザードは全てを受け入れる。 この子達も直接何かしたというわけじゃあなかったしね。 リインちゃんは……まあ、連れてきたけど決行時は居なかったし目を瞑りましょう。 バレなきゃ大丈夫よ」
「オーケイ。 それならば問題は無い。 条件は全てクリアされた。 ストラウスさん、例のモノを」
「はいコレ」
手渡された用紙が一人一人テーブルの上に配られていく。 守護騎士+αは配られた用紙に怪訝な顔をする。 そこには、かつて誓約書と書かれていたモノと同じものが存在していたからである。
「……つまり、主クライドは我らにアルハザードに住めと?」
「近いが、違う。 これもまたミッションに必要な工程に過ぎないのだ」
訝しんだのはシグナムだけではない。 他の四人も怪訝な顔をするが、クライドはそれにはまだ答えない。
「……良いだろう。 何をさせたいのかは分からないが、主を信じよう。 これが必要だというのであれば、是非は無い」
「私も承諾しよう。 別段、アルハザードに敵対する意思などない」
そうして、次々と承諾の声が響き渡る。 全員が誓約書にサインし、アルハザードに入るための体裁を整えていく。 守護騎士はかつて護衛としてゲスト扱いでここに来たことがある。 アルハザード内部で行うミッションのためならばと、特に気にせずにサインしアルハザードへ入るための魔力情報やらの検査も受け入れた。
「よし、皆終わったな?」
全ての準備は整った。 この瞬間、守護騎士たち+αはゲスト扱いでアルハザードへの入る権利を得たことになる。 ニヤリと笑みを浮かべたクライドは、手に持っていた夜天の書を業とらしく皆の前に掲げる。
「さて、諸君には説明する前に実はもう一つだけやってもらわなければならないことがある。 それは、諸君らの”魔法プログラムの演算停止”だ」
「なに!?」
「おいどういうことだよクライド。 そしたらアタシらが存在できねーじゃねーかよ!!」
「ど、どうしてですか!?」
シグナム、ヴィータ、シャマルが立ち上がり、クライドに詰め寄ろうとする。 だが、クライドはそんな三人を無視して特に気にもしないザフィーラをリインに視線を向ける。
「二人は何も言わないんだな」
「私は主を信じている。 これはミッションのために必要なのだろう? ならば別に不満など言わんさ」
「それに、今の貴方は書の所持者であり管制AIを完全に御している。 今更私たちがどうこう言ったところで強権を発動させればそれまでだ。 なのに、一々尋ねてくれるということは別段我らに不利益を与えるつもりはないだろう?」
ニヒルに笑うザフィーラと、なんでもない風にクールに受け止めるリインフォース。 対照的な意見に別れたかに見えた守護騎士たちであったが、さすがに三人も二人の言葉を聞いては折れるしかない。 せめてその前に説明させたいところだったが、この流れではあまり追求しすぎては主を信じない不忠者になってしまう。 忠義に熱いベルカの騎士としての矜持が三人の不審感とせめぎあうが、結局全員従うことに同意した。
「安心してしてくれ皆。 その信頼に俺は必ず応えてみせることをここに誓うぞ」
珍しくシリアスなクライドである。 紳士に騎士たち一人一人の眼を見た後、頷いては命令を下す。
「よし、全員プログラムの完全停止をせよ!!」
「「「「「はっ!!」」」」」
一斉に守護騎士たちが魔力の粒子となって空気中に溶けるようにして消えていく。 その様を目に焼き付けるようにしながら、クライドは静かにその様子を見届けた後、静かに呟いた。
「――さようなら、”我が守護騎士”たちよ。 これが、俺の夜天の王としての義務の果たし方だ。 もう二度と”俺の騎士として会うことはない”だろうが、みんな幸せになるんだぞ……」
この別れもまた、更なる喜びを分かち合うための儀式である。 なんとなく眼を潤ませたクライドにそっとストラウスは白いハンカチを差し出した。
「す、すいませんストラウスさん」
「いいのよクライド君。 貴方は今、きっと誇れる選択をしたのだから」
零れ落ちそうな涙をハンカチで拭いながら、クライドは今はただストラウスの優しさに甘えるだけである。 手の中にある夜天の書をストラウスに差し出すと、先ほどまで皆が座っていたソファーに座り込む。
「しばらく、ここにいます。 ハンカチは後で洗って返しますよ」
「それは記念にあげるわ。 それじゃあまた後で――」
去っていくストラウスの背中を涙の滲む視界で見送ると、クライドは己の過去を振り返った。 なんだかんだ言って、初めは死亡フラグにビビっていたが、連中との生活は悪いものではなかった気がした。 女性陣とはデートした<遊びにいった>し、ザフィーラには学生時代に随分と支えられたものである。 一つ一つの思い出を出会った頃から思い返してみれば、なるほど人の出会いとは奇妙なものである。 リインフォースとの思い出はほとんど無いが、それでもアルハザードに来る前には暇な時間を利用してちゃっかりとヴァルハラで遊んでいる。 思い残すことはもうないだろう。
「……」
そのまま三十分程経過した頃、再びストラウスが戻ってくる。 クライドはいても経っても居られず、ストラウスに詰め寄っていく。
「どうですか!?」
「問題は無かったわ。 ジルのウィルスの駆除にちょっと梃子摺ったけどほら、この通り」
瞬間、クライドの眼前に五つの魔法陣が展開される 三角の魔法陣の中にある剣十字。 ベルカ式の魔法陣の中から、先ほど分かれたはずの騎士たちが姿を見せる。
「――おお!?」
思わず息を呑んだクライドは、やはりかつての騎士一人一人に視線を送る。 ザフィーラ、シグナム、ヴィータ、シャマル、そしてリインフォース。 皆欠けることなくそこに顕現し終えている。 何度も見ている実体顕現ではあったが、さすがにこのときばかりは胸に来るモノがあった。
「……むぅ? これは一体……」
戸惑うような声が聞こえる。 騎士たちは皆、自身に起った変化に戸惑いを隠せないようだった。
「説明しよう、”かつて”我が騎士だった者たちよ」
クライドがそう言うと一斉に騎士たちが視線を向ける。 右手に濡れたハンカチを持つ男は、そうして次の瞬間に爆弾を発言をかます。
「これで皆自由だぞ。 最後の夜天の王からの命令だ。 皆好き勝手に生を謳歌するように!!」
「「「「「――っ!?」」」」」」
「皆の魔法プログラムをアルハザードの方へ移動させた。 つまり、皆は夜天の書に縛られなくても良い存在として今日この瞬間に新たに生まれ変わったのだ!! おめでとう、諸君らはもう未来永劫自由だぁぁぁぁ!!」
「そ、それはつまり守護騎士<ヴォルケンリッター>は解散ということなのか主よ」
「うむ。 勢いで叫んでしまったが、つまりはそういうことだ。 もはや皆が俺を主扱いする必要はどこにも無い。 これからは知り合いのデバイスマイスターとか友人の男とか元主とか、そんな風な肩書きを持つただの男として接してくれるのがモアベターな関係といえよう」
言われた騎士たちは、その瞬間間違いなく絶句していた。 というより、思考が明後日の方向へと飛んでいた。 いきなり呼び出されてミッションがどうとか言われて構えさせられらたかと思えば、いきなりの守護騎士解散宣言である。 これで驚くなという方が無理であった。
「じ、自由に好き勝手生きるのが我々の新しいミッションだと、そういうことか”元主クライド”」
「そういうことだ。 しかし、随分と切り替えが速いなシグナム」
「いや、ただこれが最後のミッションというのであれば、やり遂げなければと思ってな。 最後の王から下されたミッションだ。 達成しないわけにもいくまい」
「そ、そうですね。 ちょっといきなり何を言い出すのかと思いましたけど、”そういうこと”ならやり遂げちゃいましょう。 ね、皆」
「ちっ、しょうがねーな。 そこまで言うならアタシもそのミッションをやってやるよ」
クライドが言いたいことは伝わったらしく、騎士たちは皆全力でミッションに当たることを誓う。 いつも好き勝手にしろと言ってきた主が、本当の意味で自分たちを好き勝手させようとしていたのだ。 苦笑しつつも、最後の任務に挑まない理由が彼らには無かった。
「まったく、本当に面白いことをする”元主”だ。 ふふ――」
リインフォースもまた、想像だにしなかったことを平然と実行されて戸惑ってはいたがそれよりも先にこみ上げてくる笑いを抑え切れなかった。 ここまで夜天の書を好き勝手してくれた主などいないだろう。 善意か義務感か好意なのか、一体どれなのかさえ分からなかったが、ここまでされると痛快な気持ちにさせられるから不思議であった。
その後、ベルカの騎士たちは『快適なアルハザード生活の栞』をストラウスから貰って一応の部屋と端末を手に入れると、次の日には皆が自分だけの日常へと帰っていった。 騎士たちは別にアルハザードでやりたいことがあるわけでもないので、一先ず今までどおりにヴァルハラを拠点に動くようだったが、それでもそれぞれが皆、本当の意味で新しい自分を始めようとしていた。
誰かに記憶を弄られるでもなく、誰かの命令に絶対服従させられかねないなどという事実も無く、自分で考えて自分で最後まで責任を持って行動する極当たり前な存在として、その日騎士たちは次元世界に回帰した。
――それは、彼らが遠い昔に失ったはずの”もの”だった。
憑依奮闘記
断章03
「歌姫と狼と山猫と」
――古の昔より、デバイスマイスターにのみ伝わる伝説がある。
デバイスの女神のご加護を得たデバイスマイスターは、途方も無いデバイスを作成できる。 それは、本当に夢のような伝説であった。 なるほど、神の加護を得られるのであれば確かに常軌を逸するデバイスを生み出せることもあるかもしれない。 彼女の大ファンであるクライドも、やはり当たり前のようにデバイスの女神様が降臨するのを常日頃から待っていた。
「……ぐあぁぁ。 ZZzzzz」
深夜である。 気持ちよさそうに黒髪の男が一階のソファーの上で眠っていた。 二階にも部屋があるが、彼が二階に上がると”碌な事”にはならないので絶対に二階には上がらない。 助手の人が毛布やら何やらを上から降ろしてくれたので、それに包まって眠るという生活を送っていた彼の寝床は、専らリビングのソファーの上であった。 偶に気が向けば空中にシールドを発生させてその上でも寝るし、研究室にある仮眠室で寝ることもあれば床に大の字で寝ていることもある。 だが、概ねソファーの上というポジションで寝ることが多かった。
その日は、失ったかつてのデバイスを作成し終えた夜だった。 ブレイドにアーカイバ、更に調子に乗ってバンカーナックルにマジックガンにと、とにかくここ連日大忙しの毎日だったせいで、さすがのクライドも疲れきっていた。
クライドはデバイスを愛する男である。 その愛し方は様々だ。 研究する、想像する、整備する、改造する、デレる、なんとなく話しかける、使用する、頬擦りする、塗装が剥げそうになるほど磨き上げるなど、本当に多種多様である。 しかしその日はいつもと違って夢の中でデバイスを愛でていた。 もやは完全にデバイス中毒者のそれであった。
「――zくぁwせftgyb!!」
と、瞬間奇声の如き悲鳴と共にクライドが上体を起こし、ソファーから飛び上がる。 その手にはいつの間にかブレイドが握られていた。 デバイスを愛玩中に恋愛テロリストにでも襲われる夢でも見たのだろう。 荒い息を上げながら周囲を睥睨して、薄暗く照らされた室内を見て安堵のため息を吐いた。
「ふぅぅ、夢か。 危ない危ない、またしてもグリモア君の甘い罠にかかるところだった」
冷や汗が流れる額を拭うと、夢の中まで追いかけてきた助手の行動に対して思わず青ざめる。
「お、恐ろしい攻撃だ。 物理的に制圧してマウントポジションを取った後に、我が愛すべきデバイスを人質に婚姻届への捺印を迫ってくるとは……さすがグリモア君。 俺の弱点を知り尽くしている……なんて恐ろしい娘だ。 一瞬あのままゴールしても良いと思った自分が情けないぜ」
戦慄の表情のまま、首を振るう。 本当に”紙一重”の戦いだったのだろう。 眼が覚めなければその脅しに屈していたのかもしれない。 リアルでも三度迫られたことがあった。 とにかく、彼女は分かりやすい既成事実を欲しているらしい。 隙を見せれば口撃してくる。 基本的には受身なリンディとは違って押せ押せ攻撃であり、クライドの難攻不落の防御に幾度と無く致命傷を負わせて来た。 とはいえ、クライドは基本的に天邪鬼でありヘタレであり、ロマンチストである。 意中の女性に振られた今、早々簡単に靡くようではその程度の思いだったのかと自身を諌めていた。 それは迷いだったのかもしれないが、とにかくこの迷いがあるうちはグリモアの気持ちに答えるわけにはいかないと、頑なになっていた。
或いは、それは大事にしたいからこその思考だったのか。 それは本人にしか分からない。 しかし、とにかくクライドは時間を欲していた。 時間が全てを解決するとは言わないが、それでもそう思えるほどの月日が彼には必要だったのかもしれない。
と、そんな迷える男がブレイドを仕舞ったその瞬間だった。 落ち着いた瞬間を見計らったかのようにクライドは”女神”に出会った。
元々デバイスについて四六時中考えているような男だ。 思考をデバイスに連結させて考えることには慣れている。 疲れて休眠を欲していた体に、ふとマッサージでも欲しいなと思った瞬間にはもう、そのデバイスのイメージが出来上がっていた。
「――キタ。 デバイスの女神が降りてきやがった!? か、神はやはり二十四時間眠らないのか!?」
その感覚をクライドは知っていた。 全身を襲う鳥肌が立ったかのような奇妙な感触と、興奮が加速させる心臓の鼓動。 疲れなど吹き飛ばす清涼たるイメージ。 焦燥を感じる息苦しさ。 二度目は無いという強迫観念にも似た衝動。 このイメージを失ってはいけない。 これは至高なる頂へと自らのデバイスマイスター位階<レベル>を上げるチャンスだと断じても良かった。
「メモ帳、メモ帳は何処にぃぃぃぃ!!!!!!」
ドタバタと、足音を響かせながらクライドが家の外へと駆けていく。 裸足だったが、知ったことではなかった。 一分一秒でも早くイメージを形にしなければ失われてしまう。 自分の家のメモ帳にメモをするはずが、どういうわけか研究室へのマラソンになっていた。 もはや、クライドは正気でせさえなかったのだ。
そのまま数十分走り続け、しかもその間に脳内で仕様を構築。 到着すれば入り口のドアを蹴り破る勢いで突入していく。 まるで悪魔にでも取り付いたような有様だ。
「あった、メモ帳。 ペン……ペン……ぬぉぉぉぉ、この際マジックでも構わぁぁぁん!!」
ひたすらにメモ帳にメモると、血走った眼で空間モニターを開き今度は狂ったようにタイピング。 日ごろから大絶賛されている目つきの悪さが、今日ばかりは凶悪を通り越して魔眼と化す。 恐らくは、今のクライドに睨まれるとその人物もまたデバイスの悪魔に取り付かれるだろう。 それは、それほどに凄まじいモノだった。
「……室長?」
研究室の入り口から、クライドの異常を察知して実家であるテインデルの家から起きだしてきた助手が声をかける。 白黒のパジャマの上にカーディガンを軽く羽織っている。 恐らくは寝ている最中だったのだろう。 しかし、そんな彼女の心配の声も今のクライドには届かない。 恐らくは今この瞬間、ヴィーナスでさえクライドの関心を得ることはできないだろう。 返答はなく、帰ってきたのは沈黙。 グリモアはその尋常でない様子を見て、息を呑んだ。
クライドは止まらない。 今度はいきなり席を立つと、パーツを保管している倉庫まで走り去っていく。 そして、数分も経たずに戻ってくるとパーツをぶちまけて組み立て始めた。 その頃になって、グリモアにもようやくそれが見えた。
「あああ、見える。 見えます。 ボクにも見えますよ室長。 今の室長には本物の神が降りてます……これが、デバイスの女神ですか!?」
機人でさえ恐れ慄く。 其れは正に人外の所業だった。 図面さえ書かず、クライドが滅茶苦茶にパーツを組んでいくというのに、それはしっかりと形になっていく。 研究室の機材の稼動音と、時折響くデバイスマイスターの咆哮。 普通に考えればもはやそれは人ではなく妖怪の類だろう。 しかし、グリモアはその変態を通り越して神掛かった神技を振るうクライドの様子を食い入るように見つめていた。
何かに一心不乱に打ち込む姿というのは往々にして格好いいものである。 例えそれが常人には到底理解できない未知の何かでもだ。 クライドのその姿は、その瞬間だけ存在が許される一種の強烈な芸術のようなモノでもあったのかもしれない。
グリモアにとってのクライドの最も格好いい瞬間というのが、今正にこの瞬間である。 助手として超至近距離から観察してきた彼女を虜にした最大のそれは、正に邪念の隙の無い崇高な姿という奴だ。 それは時折見せる技術者としての顔であり、グリモアしかほとんど見たことがない鮮烈な輝きだった。 これに匹敵する輝きを拝むにはもう、デバイスのスクラップ山にクライドを放り込むしかない。
「っしゃーーーー!!」
「あ、室長!?」
数時間後、一際大きい歓声が木霊した。 その次の瞬間、電池が切れた玩具のようにクライドが床に倒れる。 しかし、グリモアは確かに見た。 先ほどまでクライドが作業していた作業台の上に、しっかりと鎮座するデバイスがあったことを。 夜明けの光のせいか、一瞬眩いほどの光を放ったそれに、グリモアは未だかつて無いほどのオーラを感じた。 が、それも一瞬のことでしかない。 熱が冷めてしまえば、すぐにそれへの関心は無くなった。 床の上に倒れたクライドの傍まで駆け寄ると、仰向けにして状態を確かめる。 呼吸、脈拍共に正常。 異常は無い。
「良かった。 魂までは持っていかれてませんね」
放心したような状態のその男は、恍惚な笑みを浮かべて不気味に笑っていた。 百年の恋も冷めかねないほどの緩み顔である。 が、生憎と機人であるグリモアは正確な意味での造詣は理解していないので華麗にスルー。 クライドが正気に返るまで膝を貸した。
「……お、おお? グリモア君ではないか。 これは一体……」
「お疲れ様です。 女神様の加護を賜ったようですね。 完成した後に倒れましたけど、大丈夫ですか?」
「はっ、そうだ。 デバイスはどうなった!!」
「ちゃんと完成してますよ」
「な、なら良かった。 もう、思い残すことはあまりない。 このまま床の上で寝させてくれ。 ガクリ――」
トランス状態が長すぎて、疲弊しているのだろう。 バリアジャケットを展開して風邪引きを防止すると、すぐに意識を手放すクライド。 その顔を見下ろしたまま、グリモアは微笑みを浮かべた。 好き勝手やって満足し、疲れて眠りこける大きな子供を相手にしているようで微笑ましい気分になったのだ。
「”男は一生大人にはなれず、女だけが大人になれる”。 ということは、やっぱり室長は子供のままなんでしょうね。 まったく、手のかかる人です」
すぐに無防備に寝息を立て始めたクライドの黒髪を梳きながら、悪態にも似た呟きをこぼすグリモア。 だが、やはりその顔は優しく笑ったままだった。
「これは……えーと、なんなのかしら」
その日、ストラウスは世にも奇妙な物体を見た。 一見するとリストバンドに近い形状のものである。 だが、それには必要ないパーツがついている。 それはコードだ。 コンセントへと差し込むプラグとコードがついているのである。
「実は本日は業界に革命を起こす発明を完成させるために参った次第。 これはその試作品。 中に必要なデータはまだ無いが、これがそのデータを得て完璧になったその日に、次元世界が震撼することになるだろう。 儲けはいらないから、完成させるために手を貸して貰えないだろうか」
神妙な顔で黒髪の男は言う。 ストラウスにとっても一応見知った男だった。 近づかれるのは苦手なので、受付のカウンターから今にも身を乗り出しそうなその男から二歩離れ、発言の意図を吟味する。 要するに、男は儲け話を持ってきたつもりなのだろう。 善意で個人的に優遇するのは構わないが、会社関係となると儲け話にならないモノはストラウスは綺麗な笑顔で断る。 が、男の発明にはサバイバルデバイスという過去の実績がある。 慎重に構えながら、とにかく話を聞くことにした。 そもそも、これが一体何なのかさえ彼女には分からないのだ。
「室長が言うには、これはサバイバルデバイスを軽く超える可能性を持っているそうです。 ボクはこんな”デバイス”は馬鹿馬鹿しいと思うのですが、どうしても世に出したいというので相談に来ました。 確かに、売り方によっては売れると思います。 一考してくださいストラウス」
助手が健気にもフォローを入れつつ、企画書を差し出してくる。 それを受け取ったストラスはすぐに文面に眼を落とし、頬をヒクつかせた。
「あ、アリシアちゃんを起用するの?」
「ああ、出来れば彼女の名声もお借りしたい。 後、その道のプロを一人と顔写真を出しても良い美男美女を一名ずつ。 バリエーションとして後は老人方に人気がでそうな甘い声を出せる孫っ子も入れたいところではある」
次元世界の歌姫を起用させろというその男。 本気で手段を選ばないつもりのようである。 ミーアが自らの毛並みと可愛らしさを武器にして売り込んできたサバイバルデバイスと同じで、確かに今度の品も面白そうではある。 が、ここでアリシア<歌姫>を投入するかどうかはさすがのストラウスも迷う。 とはいえ苦笑いの表情のその内心では冷静に損得を考えていた。
アリシアのファンで、マニアなら間違いなく”買う”だろう。 後は、アリシア抜きでどれだけ売れるかだが、プロを使うというのとバリエーションを作ることで幅広くカバーしようという戦略が企画書からは読み取れた。 これに、ミッドガルズのブランドと信頼性を上乗せするとすれば、最低でも採算ぐらいは取れるだろう。 とはいえ、このデバイスは未知数の品だ。 しかし、応用させれば他にも面白い商品が作れないこともない。 少しばかりアルハザード系の技術流出が懸念されたが、許容範囲内といえば許容範囲内。 当たれば二つ三つと次の品を出すこともできるだろう。 勿論、一発ネタで終わる可能性も無きにしも非ずだ。 売り出すとしたら、相当に慎重に扱う必要がある。
「うーん……それじゃあ、カノンちゃんの顔を立てて条件付で了承しようかな?」
「ありがとうございます」
「でもクライド君。 作るのなら”本気”で売れるようなモノに仕上げてね。 それと、分かってるとは思うけどアリシアちゃんのイメージを壊すようなものも駄目よ」
「勿論、それは留意するしそっちの開発部と打ち合わせのときに検討してもらう。 とにかく、俺はこれを世に出して次元世界に新たなる癒しを提供したいのだ。 そっちは純粋に儲けを好きにしてくれればいいし、アリシアちゃんはそれで更なる話題を掻っ攫ってくれればいい」
「三者一得……ね」
「ついでに、プロの人も名が売れて儲かれば言うことなしだ」
「でも、そんなに上手くいくのかしら」
「ストラウスが”承認”する仕事は金になる。 これ、自治世界連合の界隈じゃ有名な格言らしいんだが?」
「ふふっ、世間の風評と現実は違うかもしれないわよクライド君」
クライドのヨイショに苦笑すると、ストラウスは内線で開発部の人間を呼び出す。 と、空間モニターが開かれその向こう側に白衣姿の男が出てきた。 中年親父を地で行くその男は、よれよれの作業服をそのままに怪訝そうな顔をしていたが、ストラウスの姿を確認するやいなや慌てて表情を変えた。
「ヤマダ君、ちょっと今の仕事と平行して一つやってもらいたいことがあるんだけど……そっちは大丈夫かしら?」
『といいますと?』
「追加でこの彼、クライド君が売り込んできたものを完成させて見積もりも出して欲しいのよ」
『それは構いませんが……社長、新バージョンのサバイバルデバイスの開発案が中々纏まらないので、少しばかり時間を融通して欲しいのですが』
「あら、じゃあ丁度いいわ。 彼に相談してみてくれる? 一応アレの発案者だから」
『な、なんと!? それはありがたい。 分かりました、手が空き次第取り掛かりましょう。 あの奇怪な作品を生み出した生みの親ならば、さぞかし常人から突き抜けたアイデアを賜れるでしょうから』
「期待しているわ」
通信を切ると、ストラウスは言う。
「というわけで、少し協力して欲しいのだけど構わない?」
「ああ、丁度バージョンアップ版の構想もある。 そっちも提案してみよう。 っと、グリモア君はどうする?」
「ボクはボクでストラウスに話がありますから自由にさせてもらいます」
「了解だ。 んじゃいってくる」
足取りも軽やかに去っていくクライド。 軽くそれを見送ると、二人は話を続けた。
大多数の普通の家庭には、母親がいれば父親もいる。 であれば、当然次元世界の歌姫にもそういう者がいたはずだった。 もっとも、大多数が必ずしも絶対というわけでは当然ない。 その中でも離婚というのは珍しくもなんともないことで、一つの結末として存在している。 男女の仲とは揺れ動く振り子だ。 結局のところ最後の最後までどうなるかなんてのは分からない。 熱く燃えるような恋に焦がれて一つになっても、何かあれば道を違えることなどザラにある。 理由など何でも良い。 何か耐えられぬことさえあれば、それだけで良いのだろう。 例えば、それが生活のすれ違いでも。
仕事と家庭の両立。 言うだけならば簡単だが、それをこなし続けるには少しばかりのエネルギーが必要なのかもしれない。 それに耐えなれなくなった瞬間に、その夫婦の道は分かれた。 ただ、それだけのことに過ぎない。
「……ん、随分と大きくなったなアリシア」
「父さんは老けたね」
「そうか、まだ私のことを覚えてくれていたのか」
感慨深げに微笑む父親を前にして、アリシア・テスタロッサはただそう呟くことしかできなかった。 どういうつもりで会いたい、などと父親が言って来たのかは分からない。 しかし、それでもそれをリニスとプレシアがずっと彼女に黙っていたことは少しばかり残念だった。 事が露見したのは、偶々リニスがその父親からの手紙をアリシアが見る前に処分し切れなかったからである。
プレシアと父親との間で親権やらの決着はついてはいたが、父親が娘に会いたがる気持ちというのはなんとなく想像できた。 だから、こっそりとザフィーラを伴ってミッドガルズ本社から一番近い公園のベンチにやってきていた。
父親の顔はもう記憶にはほとんど残っていなかったが、それでもアルバムには残っていた。 その時の顔と比べて見れば、随分と老けているようにも感じられた。 だが、その金髪は彼女のそれのルーツと思えるほどに存在を主張し、黒のスーツは小奇麗な身を装っている。 久方ぶりの娘に会うためにめかし込んできたのか、それともそれが普通なのかはアリシアには分からない。 だが、少なくとも嫌な感じというのをアリシアはこのとき感じなかった。
対するアリシアと言えば、私服の上に目深な帽子にサングラスを装備し、膝の上に子犬フォームのザフィーラを抱きかかえて目立たない用に偽装していた。 一応有名人であるという自覚があったから、大抵外を歩くときはそういう出で立ちの時が多い。
平日の昼間だ。 偶々休みである自分はともかくとして、公園の人通りは主婦やら子供やらが多い。 どこか浮いているような気がしないでもなかったが、アリシアはあまりそれを気にしない。 それよりも、自分の父親がどういうつもりで自分に会いたがっていたのかが気になっていた。
「……どうして、父さんは私に会いたがったのかな?」
「父親だから、では駄目かな」
「母さんはどうせお金目当てだって、言ってたよ。 前のときに」
「それは心外だな。 プレシアは怖かったのさ。 彼女は母親で、私は父親だ。 私に取られると思ったらそういうことも言うさ。 アレはアリシアには甘いからな」
「ん、母さんは優しい人だから」
「そうだな……」
「ねぇ、本当はどういう意味があったの?」
子狼の体をギュッと胸元に抱きながら、探るようにサングラス越しにアリシアは言う。 父親はその様に苦笑しながら視線を外し、遠い空を見て寂しげに口を開く。
「テレビを見ると、アリシアの歌声が聞こえる。 街に出れば、成長したアリシアのポスターを見かけるようになった。 有体に言えば未練……だったのかもしれない。 プレシアを私は愛していなかったわけではなかったし、アリシアも愛していたはずだった。 なのに、いつの間にか私とプレシアはすれ違い、こんなになってしまった。 だからそう、きっとこれはそう……未練なんだろうな」
自嘲するような呟きの奥には、何か眩しいものを見るような憧憬がある。 或いは、男は振り返っていたのかもしれない。 アリシアにはもう思い出せない、三人で居た頃の生活というのを。
「それで、居ても経ってもいられなくなってな。 未練がましく手紙を書いた。 アリシアがどういうつもりでここにきてくれたのかは分からないが、それでも娘と直に話せて少しばかり嬉しい。 ……元気にやっているか?」
「うん」
「母さんと喧嘩したりしてはいないか?」
「しないよ。 私は母さんが好きだから」
「今は、幸せか?」
「当たり前だよ」
「そうか……」
多くを語る言葉はない。 一つ一つ噛締めるような、そんな風に父親は問い、それにアリシアは間髪入れずに言葉を返す。 それに一々頷きながら、父親は寂しげに笑う。 自分<父親>がいない世界であっても幸せだという娘の言葉は、何よりも重くそして苦いものだった。 当然、気持ちが沈まなかったといえば嘘であるが、父親はそれを隠すようにして懐に手を伸ばす。
「アリシア、実は今日一つお土産を持ってきたんだ。 受け取ってもらえるか?」
「お土産?」
「何が良いのか私にはわからなかったが、最近管理世界でこういうのが流行しているらしい。 会うのはこの一回にすると決めていたから、記念になるようなものが良いと思ってな。 勿論、捨ててもらっても構わん」
差し出したのは、ペンダントだった。 ただ、それは普通のペンダントというわけではなさそうだ。 角ばった紫色のクリスタルのその中に、何やら髪の毛のようなモノが入っている。
「ヘアークリスタルとかいうらしいな。 偶々CMでやっているのを見たよ。 友達やら家族や恋人なんかの髪の毛を入れてお守りにするらしい。 どうせなら何か残るモノがと思って、コレに決めた」
「そっか。 ありがとう父さん」
受け取ったそれを早速首にかける。 胸元に揺れるクリスタル、その中には自分がいる。 それならば、自分が居なくても、娘と一緒に入れるような気になることができる。 単なる妄想とかそういうものに近いものであっても、そう思えることこそが重要だったのかもしれない。
「それで、少しアリシアに頼みがあるんだ」
「……頼み?」
「実はな、それをもう二つ用意してきているんだ」
「二つ?」
「ああ、一つはアリシアの好きなようにすれば良い。 プレシアの髪の毛を入れてお守りにするといい。 ただ、一つは私が持っていたいんだ。 そこでお前の髪の毛をくれないか? そっちは私のお守りにしたい」
「……」
「嫌なら諦めるが……どうだ? 父親からの最後の頼みだ。 お前の近くにはいられないとしても、お前の一部と一緒に居させてくれないか?」
「……いいよ」
「ありがとう」
懐から更に二つのクリスタルを取り出す父親は、それをアリシアに手渡す。
「一応ハサミは用意してきたが……大丈夫か? 芸能活動に支障をきたすようなら、別に今じゃなくても後で送ってくれればそれでも良いが……」
「ううん、別にバッサリ斬らなきゃ行けないわけじゃあないでしょ? だったら大丈夫だよ」
長く伸びた金髪を、取って、三、四本短めに切る。 そうして、掴んだ髪の毛をクリスタルに入れた。 クリスタルが濃い色になっているのは髪の毛が入っているとは意識させないためなのだろう。 クリスタル単体であってもアクセサリーとしての違和感は特に無い。
「はい、これでいいかな?」
「ああ」
大事そうにそれを受け取ると、すぐにそれを娘のように父親は付ける。
「ふふ。 それ、スーツには似合わないね」
「みたい……だな。 はは、ちょっと勿体ないがポケットに仕舞っておこう」
二人して苦笑い。 それが、父親と娘の最後の邂逅。
「……そろそろ行くよ。 すまなかったな、忙しい中時間を取らせて」
「もう行くの?」
「あんまり長く話していると地が出る。 父さんはこんなスーツよりも、実は研究室の白衣の方が性に合ってるんだ。 首元のネクタイが窮屈でいけない」
「……そっか。 父さんもお仕事頑張ってね」
「ああ、アリシアもな」
ベンチから立ち上がって、アリシアの頭にポンと手を置く。 そうして、背を向けると父親は一言だけ言って公園を去っていった。
「さようなら父さん」
「ああ。 さようならアリシア」
去っていく父親の背中に一声かけて、そのまましばらくアリシアはボンヤリと空を見上げる。 その右手は、なんとなく胸元のクリスタルを弄っていた。
「父さんと母さんはね、確か私が二歳か三歳ぐらいの時に別れたんだって。 私は母さんの方に引き取られて、性は”テスタロッサ”に戻ったんだけど……ほとんど父さんの記憶がないんだ。 だから、そう。 ちょっとだけ今日は、期待してたのかもしれないんだ」
「そうか」
「でも、やっぱり分からなくなっちゃった」
左手でザフィーラの毛並みを撫でながら、アリシアは呟く。
「どうしてかピンとこないんだ。 あの人は父さんのはずなんだけど、私にとってはもうそういう対象じゃあないのかも……」
居心地悪そうに言うアリシアを、ザフィーラはただ黙って見上げた。 持て余す感情の行き先が分からないのだろう。 父親との時間が少なすぎたアリシアにとっては、もはや父親などいないのが当たり前となっているのかもしれない。 そんな彼女の所にやってきた、一度だけで良いから会って話をしたいという父親からの切実な思いが込められた手紙は、何がしかアリシアにとって思うところがあったことは想像に難くない。
「会って後悔したのか?」
「わかんないや。 さっき、父さんは長く話していると地が出るって言ってたけど、私の方も多分そうだったのかもしれない。 私はきっとあの人の娘を演じてた。 それは父さんも同じだったのかも。 優しい父親を演じてくれてたって、そんな気がするんだ」
「演じていたのではなく、二人ともこの瞬間だけはそう在りたかったのではないのか? 私はアリシアの父親がどういう人間かなどとは知らないが、少なくともアリシアのことは少なからず知っている。 私にはそんな風に見えたがな」
「そう……なのかな」
ザフィーラはそう言うが、アリシアにはその自信がどうしても湧いてこない。
「まぁ、何はともあれこれから先の人生で何かが劇的に変わるというわけでもあるまい。 プレシアとリニスが君にはいるのだ。 それだけで十分に幸せなのだろう? だとしたら必要以上に気にすることもあるまい」
「なんか、ちょっと冷たい気がするよ」
「しかし、だからといってプレシアたちから離れてあの男の所に行くつもりはないのだろう?」
「それはそうだよ。 私は、私の居るべき場所に居るんだから」
「ならばそれで良いのだと私は思う。 あの男に今が幸せだと答えたのだ。 だったら、その分プレシアやリニスの二人と一緒に幸せを謳歌すると良い。 その方がきっと、あの父親としても踏ん切りがつくだろうさ」
「そういうものなのかな?」
「少なくとも私が父親だとしたらそう思うだろう。 ”善良な父親”というのはきっと、そういうものだ」
アリシアの膝の上から飛び降りるザフィーラ。 首輪から伸びるリードがベンチの上から地面に落ちそうになるすんでのところでアリシアが慌てて掴む。
「わわっ、もう帰るの?」
「いつまでもここで考え込んでいても埒が明かぬ。 ならば、気晴らしに散歩でもすれば良い。 天気も悪くないしな」
「……そうだね。 ん、それもいいかな」
小狼がトコトコと小さな体躯でありながら力強く先陣を切り、急かされたアリシアはその後に続く。 公園の樹木と木漏れ日。 緩やかな午後の日差しは涼しくもなく暑くもなく丁度良い。 のんびりとした空気。 故郷のミッドチルダ南部のアルトセイムと比べれば喧騒は比べ物にならない程響いているが、それでも確かにのんびりとできるような気がしてアリシアの足取りが少しばかり軽くなる。
四年前、コンサートツアーが終わってからのオフの日にアリシアはザフィーラたちが居なくなったことを初めて知った。 次元世界を巡るせいでアルトセイムの事件のことなど全く届いていなかったのだ。 いつもザフィーラがいるはずの家はそこにはなくて、そこあったのはただの瓦礫の山。 何があったのか分からず、しばし呆然とした。
付近の住人に聞けば、何かの事件にあって使い魔は行方不明になっていると聞かされた。 あの頃は随分と悲しくなったものである。 だが、どういうわけかひょっこりとまたその子狼とその主の青年はコンサート会場に現れた。 その時、アリシアは嬉しくなって思わずメイクをやり直すハメになってしまったものである。
「そういえば、ザフィーラはこれ知ってる?」
胸元のヘアークリスタル。 確かに、今現在管理世界では流行しているらしい。 主に若者の間では恋人間での間を繋ぐものとしての意味合いが強いみたいだが、確か様々な色のバリエーションがあったことをアリシアは覚えていた。
「いや……よくは知らないな。 管理世界では流行していると先ほど言っていたが、自治世界の界隈でも流行しているのか?」
「こっちではそうでもないみたい。 ストラウスさんも一口噛まないかって商談を受けたみたいだけど、断ったって話してたから。 なんかね、”嫌な感じがする”から扱わないんだって言ってた」
「ほう? 彼女が手を出さないというのであれば、あまり流行し続けるものなのではないのかもしれんな」
「かもね。 ストラウスさんは”業者泣かせ”で有名だから……」
ストラウスが断った商談はことごとく失敗する。 ある意味で、嫌なジンクスである。 その情報が他社に洩れるとヴァルハラでは確実に誰もその商談を受けなくなる。 未来を読んでいるのではないかというぐらいに、その読みは外れない。
「でもちょっと素敵だと思わない? 離れた二人を繋ぐクリスタルなんだよ」
「そのファンシーとかいう感覚が男の私には分からない。 まぁ、乙女心を疼かせるものだということは分かったがな」
「もう、そういうところザフィーラは淡白だよね。 クライドお兄さんなら分かってくれそうなんだけどなぁ」
「元主はまぁ……アレでデバイス占いなどが好きらしいし、ロマンが好きだ。 そういうのも確かに理解できる感性を持っているかもしれんが……多分こう言うだろうな」
苦笑しながら、ザフィーラは後ろを振り返る。
「『良い男が見つかったときにでもしてあげれば喜ぶぞ』、とな」
「ふふっ、確かに言いそうだね。 そうなったら多分、母さんとリニスの厳しいチェックが入るよ」
「そういえばもう十八だったか。 そろそろ周りが放って置かないのではないか?」
「どうだろうね。 私の事務所は”ストラウスさん”がいるから、誰も下手に手を出せないってカグヤさんが言ってたけど……」
「それは手強いな」
「多分そのストラウスさんとリニスのせいだと思うんだけど、何故か異常に私の周囲には女の人しかいないんだ。 SPの人は除いて……だけどね」
芸能界だろうが経済界だろうがストラウスの管轄にあるという意味は”凄まじい”。 ヴァルハラは言うに及ばず、自治世界連合内ではその名前だけで十分な虫避けになる。 管理世界ではそうでもないが、それでもミッドガルズと末永く商売をしたいと考えている連中ならばまず間違いなく自重するようになっていた。
「元主曰く、”男は皆狼”らしいからな。 それぐらいが丁度良いのかもしれん」
「”悪い狼さん”は怖いもんね」
「とはいえ、自分で言っておいてなんだがこの例えは酷く狼のイメージを侵害しているような気がするのだ。 あまり気持ちの良い言葉ではないな」
「ふふっ、そうだね。 ”良い狼さん”もいるはずだもの。 一緒にしたら可哀想だよね」
狼本人が言っていて気分を害しているのだから、確かに面白くないのだろう。 一括りにされてしまっていることに憤慨しているザフィーラの後ろでアリシアはクスクスと笑った。
新しい曲作りのためにストラウスの家に厄介になっていたアリシアは、ようやくいつものように朗らかな笑みを浮かべた。 ザフィーラはその気配を背中で感じながら安堵する。 少しばかり業とらしかったかもしれないが、変に考え込むよりは良い。
何も感じなかったら、そもそも父親に会いになどこないだろう。 もしここで会っておかないことを選択したとしても、知ったことで後でモヤモヤすることもあるかもしれない。 丁度ストラウスの家で番犬のアルバイトをやっているザフィーラに声をかけてきたのは行幸だった。
盾の守護獣とは夜天の王を守るために存在していたわけだが、今現在、夜天の王などどこにもいない。 シグナムやヴィータ、それにシャマルなどは速い段階で自分のやることを決めているようだがザフィーラには少しばかり迷いがあった。
一応フリーランスの資格と、護衛の資格を取ってストラウスの家で番犬の仕事をしていたが、それで良いのかと思う自分がそこにはいたのだ。
シグナムはシリウスに付き、ヴィータはリインフォースとミーアの所に行き、シャマルは新しい自分を始めている。 ザフィーラだけが何かに取り残されているような、そんな気持ちにさせられてしまっていた。
好きに生きろと主に言われた。 皆、その最後の命令に従って生きている。 自分を取り戻し、自分の望むままに生きている。 それはとても素晴らしいことだと思うのだが、ザフィーラだけは他の三人とは赴きが違う。 その部分が戸惑いとなって彼を迷わせていた。
剣の名家のシグナム、武器の名家のヴィータ、索敵や支援の名家であるシャマルとは根本的に違うのだ。 本来なら盾の名家の”人間”がいただろう位置に、病弱な盾の名家の主の変わりに派遣されたのがザフィーラである。 命令系統としては確かに夜天の王が最上位だが、ザフィーラにはザフィーラの真の主がかつて居た。 であれば、夜天の王無き今本来であれば彼はその元の主の所に帰らなければならないことになる。 だが、もはやその真の主も生きているはずはない。 そして、今まで己の使命に忠実に生きてきた彼である。 すぐに何かを見つけるというのは難しかった。
他の三人もほとんど境遇は似ているが、微妙なその違いが三人との違いを生み出していた。
かつて病弱な主の代わりに夜天の王を守ると約束した。 だが、もはやその約束は守れない。 クライドを守るのも有りといえば有りであったが、その主は好きにしろなどという最後の命令を発して守護騎士を事実上解散させた以上は使命感だけで守護に付くのは何かが違う気がするのだ。
通常の使い魔<守護獣>は役目を終えるか主である主が死んで魔力供給がされなくなれば消えるだけの存在だ。 だが、魔法プログラムである彼は例外存在となって存在している。 それも、身柄は今現在完全にアルハザードの中にある。 完璧に演算されている魔法プログラムのおかげで、使命を終えても消えることなく顕現していた。 そのことで、少しばかり普通の守護獣たちとは違う存在に昇華されてしまっている。
恐らくはきっと、贅沢な悩みなのだろう。 それが分かっていながら、ザフィーラはまだそれでも迷っていた。
「ザフィーラ?」
考え事をしてふと歩くのを止めたザフィーラを訝しんで、アリシアが声をかける。 だが、ザフィーラは「何でもない」と軽く首を振るって散歩を継続することにした。 アリシアの相手をしているのは、自分がそうしてやりたいからであり、それ以上でもそれ以下でもない。 それだけは、迷う必要など無いことであった。 だったら、精々今はこの贅沢な散歩とやらを続ければ良い。 ザフィーラはそう前向きに考える。
――そうして、歌姫と狼はしばし散歩を楽しんだ。
「わわっ、珍しくクライドお兄さんがリニスと一緒にいるよ」
「確かに珍しい組み合わせだな」
散歩を終えて自分の部屋に帰ってきたアリシアは、帰ってきた二人にも気づかずに論議している二人を訝しんで思わずザフィーラに声をかける。 ザフィーラも珍しい構図に一瞬首を傾げたが、すぐに二人の間にある物体に眼をやって納得した。
それは、一見すると柄の長い斧だった。 漆黒の戦斧を間にテーブルに対面した状態の二人が、ああだこうだと会話している。
「何してるのかな?」
「大方デバイス談義だろう。 リニスは納得がいくまで突き詰めるタイプだし、元主はデバイスに関しては言わずもがなだ」
リニスはアリシアの世話役として手を抜かない性格だ。 そのせいで大方本職であるクライドに色々と尋ねているのだろう。 デバイスを自ら組むことができるリニスとしても、元管理局のデバイスマイスターの意見を聞くことはプラスになるのだった。
「――であるからして、近接主体のデバイスにマガジン型のカートリッジシステムを取り付けるのはよろしくない。 アレは自動式だからガンガン衝撃を与えたりするとカートリッジがロード時にジャムる可能性があるため少し不安だ。 近接用に使うんなら、基本的に単発式か連装式がお勧めだ」
「しかし、連装式や単発式だと装填数が少なすぎて使い切った場合に弾数に不安が残ります。 近接時にはそう簡単にカートリッジを補給する暇を取れるとは思えません」
「ああ、だからそういうときのためのリボルバー型を俺はお勧めする。 さっきの二種類よりも装弾数は少し多いし、アレだと近接時の衝撃にも強いからカートリッジがジャムる心配はしなくていい」
「……では補給の問題は?」
「スピードローダーがある。 アレで一気に弾丸を補充だ。 それが面倒なんだったら、弾倉部分をまるごと変えるタイプもリボルバー型では在るからそれでいいだろう。 単発、連装式は弾丸の装填数が少ないから補充する暇さえ与えなければ初期の装弾数差で持って有利に戦えるはずだ。 遠距離ならそもそも攻撃喰らったり近づかれるまでの距離がある。 なら、十分それで戦えると思う」
「なるほど……ならば速度重視のオールラウンダー型にはやはりリボルバー型が一番だと貴方は仰るのですね?」
「ああ、それが一番無難な選択だと俺は思う。 好みの問題にして単発式や連装式にしてもいいが、間違っても”近接用”にも使うデバイスにマガジンタイプはするべきじゃない。 ここ一番の勝負時でジャムられたら目も当てられん。 マガジン型で近接戦闘をせざるを得ない状況はあるかもしれないが、だとしてもデバイスマイスターからすればそれは余りやって欲しくない戦術だよ。 整備も面倒になるだろうし」
クライドはそう締めくくると、そこでようやく帰ってきた二人に視線を向けた。
「ん、二人ともいつの間に帰ってきてたんだ?」
「ついさっきさ。 それよりも随分と話が弾んでいたようだったが」
「ミッド式でカートリッジシステムを搭載しようなんていう貪欲な魔導師は”今はまだ少ない”んだ。 アレはいい面もあれば悪い面もある。 慎重に導入を考えているリニスさんに、プロとして相談に乗っていただけさ」
「ふむ、向こうでも相変わらずのようだな」
「そっちもな。 おかえり二人とも。 待ってたぞ」
「ただいま」
「おかえりなさいアリシア」
戦斧型のデバイスを待機状態にしながら、リニスが笑顔で二人を迎える。 と、すぐに戻ってきた二人のためにお茶の準備を始めた。 それを確認しながら、二人はクライドを伴ってテーブル席に向かった。
ザフィーラは相変わらずアリシアの膝の上に招かれている。 クライドはその姿を見て苦笑した。 気に入られている様で何よりである。 さすが、記憶をアリシアの歌声で取り戻しただけのことはあった。
「それで、また随分と突然にやってきたクライドお兄さんの目的は何なのかな。 確か、すごく遠い所に行ってたんだよね? お仕事のついでに寄ってくれたの?」
「まぁそんなとこさ。 ストラウスさんに売り込みたい物があったんでね。 それに関連してアリシアちゃんにも手伝ってもらいたいことがあるんだが……」
「私に?」
「ああ、百聞は一件にしかず。 まずはコレを見てくれ」
クライドがテーブルの上にそのデバイスを展開する。 それはまさしく、あの例のブツである。
「デバイスか?」
「えと、何かなこれ」
さすがにザフィーラにもアリシアにもそれが何なのかが分からない。 リストバンド型のデバイスであるというだけならばまだ理解のしようもあるが、プラグが付いているのだ。 有線のデバイスなどザフィーラは見たこともないし、そもそもデバイスについて詳しい知識を持っていないアリシアにはサッパリ意味の分からない品であった。
「これは試作型マッサージデバイス『トントン』だ」
「マッサージデバイス――」
「――トントン?」
二人して首を傾げる。 当然だ。 魔導師の杖であり武器であるデバイスとマッサージという単語が常識的に考えて致命的な程繋がらないからである。
「簡単に言うと、電源から電力を得てそれを魔力に変換してオート機能でフィールドを発生させて、そのフィールドの圧力でマッサージの効果を装着対象者に与えるためのデバイスなのだ」
「へぇぇ……」
「またけったいな物を……」
アリシアは単純に感心し、ザフィーラは苦笑いでそのブツを見る。 が、ふとザフィーラの顔色が変わった。
「まさか、これは……”向こう側”の技術を使っているな!?」
「うむ、その通りだ」
満足げに頷くクライドに対してザフィーラは思わず眩暈のようなものを感じた。 思わず子狼フォームの前足で額にちょこんと手を当てたのは言わずもがなである。 何故、どういう理由で、伝説の都たるアルハザードの技術を使ってこんな”しょうもない”物を作るのかサッパリ彼には分からなかった。
(何故戦闘用ではなくてマッサージ用のデバイスなのだ? それほどにアルハザードでの技術習得が困難で、マッサージでも受けなければやってられない程疲弊しているのか元主よ――)
そこはかとなく生活臭が漂ってくるそのデバイスに大して、ザフィーラは呻く。 だが、作った本人は自信満々の笑顔である。 今の俺の最高の仕事だと、その黒眼が言っていた。 ますますザフィーラは困惑の度合いを深くする。 思わず心配の言葉が漏れていた。
「元主よ。 その、なんだ。 そんなに向こうでの研究に疲れているのか? だったら、こちらで少し休暇でもとればどうだろう」
「んー、根詰めすぎて疲れることもあるが基本的に面白いから当分その予定は無いが……そうだな。 気晴らしもいるだろうし二、三日こっちで厄介になってもいいかもな」
「ああ、そうした方が良いだろう。 今夜はちょっと邸内のバーにでも飲みに行こう。 今日はこちらに泊まって行くと良い。 その後で少し、久しぶりに腕を振るおう」
「悪いなザフィーラ。 ん……急な予定もないしな。 久しぶりに男同士で一杯飲むか」
「もしもーし。 ねぇ、私も一緒してもいいかな?」
「むぅ……しかし、お酒は二十歳になってからだぞ」
「うぅー、お兄さんもそうやって禁止するの?」
「一応は、な。 それに、実は俺、あんまり酒の味が分からないんだ。 長くは飲めない」
「そうなの? お酒は弱いんだ」
「いや、元主の場合は酒に弱いのではない。 それで満足できないから苦手なのだ」
「どういうことかな」
「飯を食うなら腹いっぱいにならないと気がすまないタイプなんだよ。 だから、酒を飲み続けて腹を満たす感覚が生理的に嫌なんだ」
「一応、私が料理でも振舞おうかと思っているがな」
「へぇぇ……」
酒の飲み方も人によって様々だ。 クライドにとって酒とは、食欲を促進させるスパイスでしかないのである。 故に、致命的に酒だけを楽しむという行動が苦手だった。 勿論、人に合わせて我慢することもできるが、態々知り合いと楽しくやるのに我慢などする気は無いのであった。 ザフィーラはそのことを知っているので、特に気にはしない。
「じゃあ、お兄さんとはロマンチックにお酒が飲めないんだね。 残念」
「酒でロマンチック……か。 ああいうのは、良く分からんな。 良くドラマとかでやってるような感じは現実にやるのは俺にはキツイ。 ただ、やってみたいことはあるぞ」
「と言うと?」
「よくある奴さ。 カウンターに座って、グラスを磨いているマスターに一言言う奴。 渋い感じがしていいな」
「あ、もしかして『いつもの奴』とか言ってお酒を貰う行動のことかな?」
「それそれ。 あと美人がちょっと離れた席で飲んでたらマスターに頼んで一杯奢る奴とかもやってみたいな。 『あちらのお客様からです』、とかなんとかマスターが言う奴」
「あれ、実際に女の人がやられたら凄く対処に困ると思うよ。 まだそんな人に出会ったことないからわからないけどね」
「アリシアは気をつけた方が良い。 いきなり度数の高いのを無理に進めて潰すのが目的かもしれんからな」
「そうそう」
「んー、でもストラウスさんは笑顔で何杯も飲んで相手を泣かしてたよ?」
「……待て、彼女と一緒に飲みにいったのか?」
「えへへ、カグヤさんも一緒にね。 リニスには内緒だよ」
軽く舌をてへっと出しながらアイドルスマイルでアリシアが言う。 そこでもしかしたら酒の味を覚えてきたのかもしれない。 ザフィーラは思わず眉間に皺を寄せて唸った。
「教育上よろしくないどころか、通報されたらイメージ傷がつくかもしれんというのに、一体彼女は何をやっているのだ?」
「あ、それは大丈夫だよ。 私はミルク飲んでたから」
「それならセーフか」
「それに、ここのバーはお茶とかも出してるから大丈夫だよ」
「バーで……お茶? そうなのかザフィーラ。 俺は行ったことがないからよく知らないんだが……」
「昼間は喫茶店になっているからな。 酒が駄目な者はそういうのを頼むことも可能だ。 ソフトドリンクも普通にある店だ」
「なんだ、じゃあ問題はないな」
「でも、あそこのミルク少し変な感じなんだよ。 飲むと体が妙に火照っちゃうんだ」
「……それ、ミルクはミルクでもカルアミルクなんじゃないか?」
確かにミルクも入っているが、アルコール成分もしっかりと入っている飲み物である。 クライドとザフィーラがそれをミルクだと信じて疑っていないアリシアの無垢さ加減に噴出した。
「話が弾んでいるようですね。 何の話ですか?」
と、そこへティーポッドとカップを持ったリニスが戻ってくる。
「な、なんでもないよリニス。 それよりお兄さん。 私に協力して欲しいことって何かな?」
悪戯がバレまいと必死な子供の図である。 クライドは空気を読んで、本題に入ることにする。 だが、その前にリニスが入れてくれたお茶を一口飲むことは忘れない。
「ども、リニスさん。 で、用件なんだがこのデバイストントンは実はまだ未完成なんだ。 中身に一番重要なデータが無くてな」
「そうなんだ」
「ああ、欲しいデータは人がマッサージしたときのデータなんだ。 トントンには痒いところに手が届く機能として、誰かがマッサージした時のデータを保存して再現できるように作ってある。 でも、それだけだと誰かに一度マッサージしてもらわなきゃならない。 頼む相手がいない一人身だとそれは辛いし、できれば買う人に満足してもらいたい。 そこで、プロのマッサージの人とかのマッサージデータとかをサンプルデータとして取ってから売るという方向性になるんだが……」
「つまり、私がマッサージしたデータも組み込みたいんだね」
「そういうこと。 こんな”デバイス”はまだどこでも売ってない。 消費者にとっては未知数の品になる。 しかし、アリシアちゃんという有名人のデータをつければ付加価値だけでも一定数は売れると俺は睨んだ。 それでまず知名度を上げて欲しい。 後は、プロの人のとか近しい人のデータとか他のサンプルデータを使った人たちが、口コミで広げてくれることを期待する」
要するにクライドはちょっと疲れたときの癒しアイテムにしたいのであった。 出張のお父さんが、出張先で子供に会えないときに使うとか、滅多に孫に会えない祖父が孫に肩たたきをしてもらってる感じを出したいのである。 ただ体が気持ちよいのではなく、心まで擬似的に気持ちよくなってもらいたい。 特定個人のデータを模倣する機能を加えたのはそのためであった。
とはいえ、それもまず買ってもらわなければ実感してもらえない。 商売に連結させるとしたら、それは絶対に頭になければならないだろう。 クライド個人としては完成させることにこそ意義があるが、ストラウスに協力してもらうのだから彼女にとっても美味しいモノでなくてはならない。 そこで、アリシアの力<知名度>が欲しいとクライドは頼んでいるのであった。
「面白そうではありますね。 そのデバイスにアリシアのデータを入れてプレシアに送ってあげれば喜ぶのではないでしょうか。 近くにアリシアがいない寂しさも少しは紛れるかもしれません。 試作品のモニターもまだ決まっていないのなら、彼女に頼めば喜んでやってくれると思いますし」
「ん……そうだね。 面白いとは私も思うけど、お兄さんちょっと提案があるんだけどいいかな」
「ああ、こいつはまだ未完成品だ。 クリティカルな意見は一杯欲しい。 遠慮無く言ってくれ」
「それ、声とか録音はできないのかな? ただマッサージするだけじゃ寂しいよ。 どうせなら一緒に日頃の感謝の言葉とか、普段照れくさくて面と向かって言えないことを伝えるための機能もあった方がいいと思うんだ」
「それはナイスアイデアだな!! ぜひ採用してみたい。 開発部の人にかけあってみる。 それぐらいなら簡単に改造できるはずだ。 とすると、そういう系統の使い道のCMでも提案しとけば面白いことになる……か?」
携帯端末から空間モニターを開き、クライドがそのアイデアをメモする。 いいアイデアだった。 普通の若者はあまりこんなモノに興味を示さないかもしれないが、親孝行したいと思っても、中々気恥ずかしくてできなかった者が手を出すかもしれない。 もはや本当の親も叔父さんもいなくなったクライドだが、アリシアの言いたいことは良く分かるような気がして唸らずにはいられなかった。
ただ機能を作ることだけしか考えなかったクライドは、少しばかり自分が味気ない人間になってしまったように感じてしまう。 だが、アリシアの素朴な優しさに共感できる部分がまだ残っていることに、少しだけ安堵してもいた。
作る側の人間だからこそ、使う側への配慮が欠けていただけのなのかもしれないが、その感覚は覚えておこうとクライドは思った。 普通の戦闘用なら戦術などを考慮してもっと親身になっているところだが、さすがにこれは彼にとっても未知数な方向だ。 けれど、それを言い訳にするようではデバイスマイスターなど名乗れない。
「そうだ。 声を記録するのもいいが、マッサージ中にも声を出せるようにするのはどうだ?」
「『気持ちいいですかー』とか、『凝ってますねー』とか、そういうの?」
「無いよりはいいかもしれませんね。 ただ、そういうのはパターンが限られるでしょう。 多く使う人には逆に興が削がれる可能性もあると思いますが……」
「ん、ザフィーラの案は一応保留にしとくか。 欲しい人といらない人に真っ二つに分かれそうだ。 判断は開発部に投げとくわ。 本物がとても恋しくなるかもだし」
「多分、その認識が正解なんだと思うよ。 トントンはきっとその隙間を埋めるための物ぐらいの意識でいた方がいいのかもしれない。 だって、どんなにデータを真似ても本人が一生懸命してくれるわけじゃないわけだから、本物には敵わないんじゃないかな。 マッサージチェアがあってもプロのマッサージ師が駆逐されたわけじゃないし……」
「道理だな。 温かみが無くただ気持ちいいだけのモノよりも、人はより贅沢な誰かの温もりを欲するものだ。 ご年配の方にマッサージするとして、プロよりも孫が一生懸命に肩叩きしてくれる方が何倍も嬉しいと言う人の方が多いのと同じだろう」
「機能が秀逸でもそれだけじゃ、心には響かないってわけか」
「でも、トントンに記録したデータに込められた思いはきっと本物だよ。 だから、一緒に記録した声がその想いも届けるモノであったらいいなって思う。 言葉という音でなら、トントンでも伝えることができるはずだよ。 音楽……私の歌と同じだね。 一曲一曲に込められた”何か”が、聞いてくれる人に届いてくれたら良いって、そんな風に思って私は歌ってるから。 トントンもそうやって伝えればいいんじゃないかな?」
「うーむ、なんかプロっぽいな」
「ぽいんじゃなくて、プロだもん」
一切の照れなく、アリシアが言い切る。 プロの歌姫としての顔がそこにはあった。 デバイスに対しては一切の妥協したくないクライドと同じで、そこには確かに彼女が持つ歌に対する拘りがあった。
その後、リニスやザフィーラを被験者にしてアリシアがマッサージすることで一同はデータを取ってみた。 クライドはその間終始、デバイスのデータを眺めながら調整を行う。 時折、被験者の意見で修正しながらの作業だ。 より、本物に近くマッサージされる感触を反映するため、アルハザード式のフィールドの魔法術式をこれでもかというほどに弄り倒していく。 その作業は結局、夕方まで続いた。
「失礼します」
「リニスか。 どうかしたのか?」
「アリシアがこんな時間になっても部屋にいなかったので探していたのです、見かけませんでしたか?」
「ああ、アリシアならベッドの上だ。 少しはしゃぎ過ぎたようでな」
「疲れて眠ったということですか? まったく、あの娘はいつまで経っても子供のようです」
「いや、そういうわけではないと思うが……」
単純に酔いつぶれて眠っているだけなのである。 それを子供だと言うのであればそれまでのことだったが、ザフィーラは苦笑しながらリニスを部屋へと通した。
「……ん? お、リニスさんも酒盛りするか?」
ビール瓶を掲げながら、クライドがソファーの上で手招きする。 だが、リニスはそんなことよりも先にアリシアの姿を探し、すぐに見つけて安堵していた。
「まったく、アレほどお酒はまだ駄目だと言っておいたのに。 困った子です」
教育係よろしく、リニスは眉を顰める。 いつまでもザフィーラの部屋で寝かせるわけにもいかない。 寝ているアリシアに近づき起こそうとする。 だが、手を伸ばそうとしたところでザフィーラがそれを止めた。
「リニス、今日だけは眼を瞑っていてやってくれないか? 昼間に、少しあってな」
「昼間に、ですか?」
「ああ。 本当は君やプレシアには黙っていて欲しいと言っていたが、アリシアは昼間に父親と会っていた。 だから、なんとなく飲みたかったのかもしれない」
「なっ――」
普段終始柔らかなリニスの表情が凍る。 ザフィーラにはその表情の意味は分からない。 リニスやプレシアの口から、アリシアの父親のことを聞かされたことなどない。 それはテスタロッサ一家の実にプライベートな事柄である。 親しく付き合いをしているザフィーラでさえ、本来は簡単には踏み込めない領域のものだった。
「……あの男は、何を言っていましたか?」
「特にアリシアに害がありそうなことは何も。 ただ、娘の今を確認していただけのように、私には見えた」
「そう……ですか」
俯きながらリニスは、眠っているアリシアの額に手をやった。 酒のせいで白い肌がほんのりと紅く染まっている。 体も火照っているのか、いつもよりもやや暖かい気がした。
「君も飲んでいくか? 愚痴なら付き合うぞ」
「……私は強いですよ?」
「ふっ。 望むところだ」
「元主、リニスも飲んでいくが構わないな?」
「おおう!! 綺麗な人が増えるのを拒否する漢はいない!! じゃんじゃん誘って来てくれい。 このさいカグヤでもフレスタでもかまわーんん。 あ、でも、ジャージ聖王は勘弁な。 酔いが醒めるーってレベルじゃないぜ」
「彼、すっかり出来上がってますね」
「こうなってからが長い。 普段飲まない癖に、滅多なことでは潰れんのだ。 大抵はこうなるほどに飲まんのだが、アリシアが隣で酌をしていた。 彼女に男らしいところを見せようとしてがんばった結果、こうなっている。 今は理性が飛んでいるから、色々と素直に喋るだろう。 何か聞いておきたいことでもあるならチャンスだぞ」
「別に彼のことで教えて欲しいことはありませんが……付き合いましょう」
ザフィーラがクライドの対面のソファーに座り、クライドの隣にリニスは座った。 テーブルの上にはザフィーラが作ったと思わしき”おつまみ”と”料理”がある。
「よっしゃ、まずは駆けつけ三杯だ!!」
グラスを取り出し、クライドがビールを注ぐ。
「”駆けつけ三杯”とはなんですか?」
「私も良くは知らないが、後からやってきた人間はとにかく三杯飲んでから宴に参加しなければならないという奇妙な風習がどこかの次元世界にあるらしいのだ」
「とにかく酔ってから参加しろということでしょうか?」
「かもしれんな。 ああ、ビール以外にも色々在る。 好きなのを飲めばよい」
「どうせストラウスさんのですしね」
「『好きなだけ飲んでいい』そうだ。 彼女には足を向けて寝られんよ」
「そうですね。 んっ――」
クライドが注いだグラスを手に取り、とりあえずリニスは一気に飲んだ。 気持ちよいぐらいな速度でユウヒスー○ードライのビールがグラスから消えていく。
「おお!? やはり、綺麗な人は皆酒が強いな。 次元世界の女は酒豪ばっかりだ!!」
「おかわりを要求します」
「うーい。 ひっく」
酔っ払い男が酒を注ぐ。 ザフィーラはその姿を見ながら、自分でも空になったグラスにワインを注いだ。 その間もリニスは二杯目を倒し、三杯目に移行している。 本当に酔っ払いの戯言の通りにしようというのだろう。 舌で転がすようにワインを楽しむザフィーラは、なんだかんだといって素直なリニスの様子に苦笑する。 そして三杯目も余裕で飲み干したリニスが、ようやく宴に参加した。
「さて、そろそろ始めましょうか。 まずは苦言からですが、二人とも気をつけてください。 アリシアはまだアルコールを摂取して良い年齢ではないのです。 アリシアの健康が阻害されてしまいます」
「いやー、でもちょっとぐらいならいいんじゃないか? 俺とか、高校ぐらいになったらもう正月には親戚やら親やらから飲まされたぞ」
「『高校』……『正月』? 彼は一体何を言っているのですか?」
「私にもわからんよ。 稀に彼は良く分からない専門用語や、ローカルな次元世界の単語を使う。 私の翻訳魔法でも今のは対応しきれなかった」
そのまま、黒の男は自白していく。 リニスはそれを酔っ払いの言葉として受け流し、ザフィーラと会話することにした。
「まぁ、面白くない話の前座はこの程度にしておきましょうか。 明日に彼が覚えているか謎ですし」
「ああ、それは大丈夫だ。 飲んだ間に起こったことは覚えている。 ただ、今この瞬間の彼はほとんど使い物にならんだろう」
「それは面妖な。 普通は記憶が飛ぶのでは?」
「元々変わり者だ。 酔い方が常人と違ってもそれほど不思議ではない」
「なるほど、それは確かに」
「んでな、リニスさん。 元々田舎って、閉鎖的でああいうときは遠慮が――」
虚空に向かって語りかける男が一人。 その頃には悲しいかなリニスとザフィーラは本題に入っていた。 クライドは放置プレイされた。
「それで、早速本題に入らせて頂きますが、そもそもどうやってアリシアはあの男と連絡を取れたのでしょうか? アリシアは彼の連絡先など知らないはずですが……」
「君が偶々処理しきる前の手紙が、アリシアの元に届いたらしい。 それで、彼の存在を知ったようだ」
「そう……ですか。 私の監督不行き届きというわけですね」
「そんなに難しく考えなくても良いのではないか?」
「いえ、普通に彼女に手紙の類を届けることはできないようにしています。 どんな悪意に触れるか分かりませんからね」
「悪意?」
「普通のファンレターの類いなら励みになって構わないですが、常軌を逸する方からの手紙もあります。 奇妙な差し入れなどもゼロではないですから、まずは私が確かめるようにしているのです」
「そうか、芸能人は色々とあるのだな。 私には……到底理解できぬ世界か」
「例えば、アリシアはもう昔ほどモデルやグラビアの仕事はしていません。 ですが、そんな彼女に何を思ったか奇妙な衣類が送られてくることもありました。 無論、私の魔法で発見される前に焼却処分しましたが……」
「……知名度に比例して変な虫も寄ってくるか」
「実力者はストラウスさんの名が持つ力をよく知っています。 アリシアに手を出せば、”経済制裁”を笑って発動させられる彼女の力に躊躇します。 しかし、逆にそのせいでリスクを背負ってでも手に入れたいという人間もいますし、そもそもそんなことさえ考えられない○○○○もいます。 私はプレシアにあの子のことを任されている以上、なんとしてでもあの子を守らなければいけないのです」
「ちなみに、参考までに聞いておきたいのだが何か事件は今まであったのか?」
「二度あります。 公式には出ていませんが、”大馬鹿者”がアリシアを誘拐し、ストラウスさんを脅して身代金を取ろうとしたことがありました。 数秒後にはソードダンサーに切り刻まれてその変態魔導師はこの世界から存在がロストしましたが。 まずはそれが一回で、二回目はお忍びで街に出ていたアリシアを”そっくりさん”だと思って力ずくでモノにしようとしたギャングがいました。 そちらは後をつけていた私と相談に乗ってくれたソードダンサーとで組織ごと殲滅しました。 ちなみにそのギャング、ヴァルハラで麻薬を使って一旗上げようとやってきたおのぼりさんだったようです。 巻き込まれた子分の人たちが可哀想でしたが、見せしめは必要です。 全員ヴァルハラ軍の演習相手として”引き取って頂きました”。 今頃はゴム弾と非殺傷魔法を毎日のように浴びる敵役に併走しているしょう。 それが終わったら牢獄のデザートも用意されていますので、快適な一生を送れますね」
「……裁判とかそういうのは無かったのか?」
「ヴァルハラで起こったことですから。 ストラウスさんが処理してくださいました。 話を聞いたここの王族の人は、麻薬の流入を防いだこともあってか良くやってくれたとストラウスさんをべた褒めです。 ”アリシアのサイン色紙”片手に、皆満足げなご様子でした」
「うぬぅ……このヴァルハラに、法は無いのか」
「ありますが、ストラウスさん自身が超法規的存在として君臨しているのが現実です。 あの人が仮に裁判などをして負けることがあるとすれば、それは”労働基準法の無視”だけでしょう。 サービス残業による労働時間圧倒的超過以外での隙が残念ながら見当たりません。 王族の方が言うには、ヴァルハラの全軍合わせた戦力よりもあの方の”一人”の方が怖いそうです。 それと、これはソードダンサーが仰っていたのですが、ストラウスさんにも奇妙な届け物が大量に届くそうです。 危ないものは爆弾からヒットマン、イタイ恋文までそれこそ一杯だそうですよ。 有名人は大変です」
「そういえば、この前に男が一人不法進入してきたな。 私が深夜の見回りをしているとプライベート区画へ見かけぬ男がやって来たのだ。 とりあえずフリーランスの魔導師が間違ってきたのかと思って尋ねてみたら、いきなり抜き打ちで魔法を使われてな」
「そんなことがあったのですか。 大丈夫でしたか?」
「ああ、幸い抜き打ちだ。 大してタメも無かったせいで、それほど強力な魔法ではなかった。 とはいえ、私は咄嗟にシールドでその魔法を防いだ。 防いだんだが、その瞬間弾き飛ばした砲弾が消滅せずに床にバウンドして屋敷内を無作為に反射していった」
「弾丸が反射したのですか」
「ああ、どうやら反射砲撃の類だったようだ。 シールドを前方に張ったから、反射させて後方から私に攻撃しようとしたのだと私は一瞬思ったが、相手もさすがにプロだ。 攻撃するほんの少し前に、執務室から出来てきたストラウスの姿が見えていたのだろう。 さすがに、私も気づくのが遅れてな。 まずいと思って魔法の準備をしたんだが、ストラウスに当たる寸前に砲弾は消え、振り返った私の背後でいつの間にか”砲撃を放った相手が倒れていた”」
「それは……つまりどういうことです?」
「その男はどういうわけか自分の”撃った弾”にやられたのだ」
「……はぁ」
リニスは思わずザフィーラの言葉に首を傾げた。 酔っていてザフィーラが変なことを言っているのかとも思ったが、ザフィーラの顔からは酔いなど感じられなかった。 と、その頃になってようやく隣の酔っ払いが会話に戻ってきた。
「ひっく。 あー、つまり”旅の鏡”かそれに似た魔法を発動させたとかじゃねーかな」
「”旅の鏡”……とはなんです?」
「私の知り合いが使うベルカ式魔法だ。 簡単に言えば空間と空間を繋げたりする魔法なのだが、かなり専門的で特殊な魔法の部類に入る。 強力な砲撃魔法の使い手と組めば、空間跳躍魔法と似たような攻撃も可能だ。 だが、それとは”違う”だろう。 あの瞬間、確かにストラウスは魔法を発動させていなかった。 類似魔法の類という可能性は無い」
「足元に魔方陣が無かっただけで判断してるんなら、間違いだぞ。 ”アルハザード式”だと魔法陣は任意で消せる」
「その可能性も無い。 魔力の励起反応そのものが感じられなかったのだ」
「んじゃぁ、空間捻って繋げたんじゃね? あるいは気合でワームホール発生させたんだ。 カグヤが”距離”を好き勝手するんだから、ストラウスさんが”空間”を好き勝手できるレアスキル持ってる人でもぜーんぜん可笑しくない。 てーか、あの人も向こう側の人だからもう何ができても不思議なんかないーぜ。 案外、商売の”神様”だったりしてなー。 ひっく」
「それは冗談でもハマリ役過ぎですね」
なるほど、だからストラウスは儲け続けるのだとしたら理由になる。 思わず、想像して納得しかけたリニスだった。 が、クライドの不必要な発言を彼女はしっかりと聞き覚えていた。 すぐにクライドに尋ねる。 酔っている男の口は、大層軽かった。
「ところで、アルハザード式とはなんですか?」
「んー、ベルカ式とミッド式以外の三大魔法の一つ。 多分、触ったら一番面白い奴。 リニスさんやプレシアさんは使ったら病み付きになるかも。 あれ、凝り性な人だと中毒起こす代物だからぁなぁ」
「中毒……危険なのですか?」
「危険度は他の魔法ともそれほど変わらないかなぁ。 ただ、他の魔法と違ってできることが滅茶苦茶多い。 ミッド式とベルカ式でできないことも、アレならできるかもしれんって思えるほどすげー奥深い。 ただぁ、あんまり難しい魔法を作ろうとするととんでもなくプログラム量が増えていったりする。 詳細に術式を記述できる分凝った魔法は難解になって、他の人がものすごく使い難くなるし理解するのにも時間がかかる。 その分自分が使いやすいように弄りまくれるから一番面白いとは思うけどなー」
「……あの、貴方はもう大分酔ってますよね?」
「酔ってないよ。 俺、まだ酔ってないよ。 ひっく」
胡散臭かった。 とにかく胡散臭い話をもっともらしく並べ立てられた。 そもそも、”ひっく”はしゃっくりではないのか? ビール瓶から酒を注ぎ、飲み干すその男。 リニスはやはりスルーすることにした。
「それで……ああ、どういう話をしていましたか」
「危険物とストラウスの話だ」
「ああ、そうでしたね」
軌道修正するザフィーラに頷きながら、リニスは先を続ける。
「とにかく、結論として私が言いたいのは我々が住むこの次元世界にはアリシアにとっての危険で満ち溢れているということなのです。 ええ、それはもう致命的な程にです。 ですが、いくらその危険性をあの娘に説いても、私が過保護過ぎると言って中々聞いてくれないのです。 ……これが、もしかしてあの恐ろしい若者特有の病気「反抗期」というやつでなのしょうか? アレはどんな医者も特効薬を作れない難病だと聞いています。 嗚呼……なんということでしょう。 このままではアリシアが非行に走ってしまいます」
「いや、それは単に一人の大人になろうとしているだけなのではないか」
「大人に?」
「いつまでも子供扱いは嫌だということではないかと思うが」
「しかし、プレシアや私から見ればあの子は事実として子供です。 いつまで経ってもその事実は覆りません」
「それはそうなんだろうが、アリシアからすれば違うさ。 早く一人前になって、君たち二人を安心させてやりたいという想いもあるかもしれん。 リニスがいるから安心だと、プレシアはそう言うのかもしれん。 ”自分”がいるから、アリシアは大丈夫だと君は思うかもしれない。 だが、それではいつまで経っても”アリシアはもう大人”だから大丈夫だという目で見てもらえない。 あの子は、もうそういう目で自分を見て欲しい年頃になっているのだろう」
「自立したい年頃……ですか」
「何でもかんでも自分一人でできるなんて、そんな大それたことは思っていないだろう。 そうではなくて、”できることは”自分だけでして見せたいのだろう。 一人の人間としての矜持は、アリシアにだって当然あるはずだ。 だから、成長したところを見せて君たちを安心させてやりたいのかもしれん」
「しかし、アリシアは現に襲われました。 私には、あの娘の傍にいることでしかあの子を守ることができない。 ”おまもり”もありますが、アレは絶対にアリシアを守れるというわけではないのです。 あの強度なら、中ランク程度の破壊力があれば抜けるでしょう。 あの娘を害する手段などそれこそいくらでもあるのです。 しかも、あの子は性格がら警戒心が薄い。 それが、私は何よりも怖いのです……」
アリシア・テスタロッサは物怖じしない性格である。 それは幼少の頃、周りが大人ばかりだった環境によって形成されたものだ。 そのせいで妙に度胸がある。 ステージの上で歌うことには関して言えば心強い性格なのでまったく問題ではないが、そのせいでややガードが甘いところをリニスは危惧していた。 短所は見方を変えれば長所に化けることもある。 長所は逆に、短所を生むこともある。 例えばすぐに即断できる人間は慎重さが無いとも取れるし、決断力があるとも取れる。 優柔不断な人間は一見ヘタレに見えるが、慎重に物事を考えているとも取れる。 ただ臆病なだけと思う人間も当然いるわけだが、それでも視点を変えれば”そう”見ることもできるわけだった。
「なるほど……リニスの考えも分からないでもないな」
「でしょう? それに、私はプレシアの使い魔なのです。 プレシアとのラインから流れ込んでくるアリシアへの想いが、私には……痛い程に分かるのです」
繋がっているからこそ、その母親の心が何よりもリニスの心に響くのだ。 そして、彼女自身もまたアリシアを我が子のように愛している。 リニスが慎重に慎重を重ねたくなるわけである。 ザフィーラもまた、その特異な感覚が同じ使い魔<守護獣>であるためによく分かる気がした。 だが、だからこそ言った。
「これは昔、元主から聞いた言葉なのだが”獅子は戦神の谷に我が子を落して這い上がってきた子供だけを子にする”という言葉がどこかの世界にあるそうだ」
「それは……また凄まじい言葉ですね。 ”戦神の谷”ですか」
「正確な意味は私にも分からない。 これもまた翻訳が通じない言葉だからだ。 だが、私は今その言葉をアリシアに送るべき段階なのかもしれないとふと思った」
「アリシアには魔導師としての才能はほとんどないのですが」
「いや、これは例え話さ。 実際に戦う必要は無い。 その戦神の谷に我が子を落した獅子だが、別にそれは子供が憎くてやったのではないだろう。 這い上がってきたら子供として認めるのだ。 恐らくは期待しているのだろう。 自ら谷に落したはずの我が子が成長して自分の元に現れるのを、な」
「”戦神の谷”ですからね。 這い上がってきたら、それはそれは逞しくなっていることでしょう」
リニスは想像する。 武器で武装し、魔法を極めたような危険な輩が夜な夜な戦いあっている谷を闊歩しながら帰ってくるアリシアを。 プレシアがそんな危険なところにアリシアを落すシーンだけは想像ができなかったが、それでもザフィーラが言いたいことはなんとなく分かった。
ザフィーラはアリシアが成長しようとしているのだから、暖かく見守ってやってくれと言いたいのだろう。 ザフィーラはリニスたちの想いに共感こそすれ、否定する気はない。 ただ、成長しようとする意思だけは汲んでやって欲しいのだった。
空になったグラスに、ザフィーラがワインを注ごうとワインに手を伸ばす。 が、その左手がワインの瓶を掴む前にリニスが手に取った。
「どうぞ」
「かたじけない」
アリシアの瞳のように紅いワインが注がれていく。 それを無言で眺める二人の隣で、そのアンニュイな雰囲気をクライドのイビキがぶち壊す。 いい加減限界を超えて飲みまくっていたのだから、それは当然だったのかもしれない。
「彼は、お酒の席にはとことん向きませんね」
「理性が残っている内限定で言うなら、そうでもないがな。 アリシアに潰された格好付け男の末路だ。 この調子でアリシアには潰される前に潰すことを練習させればいい。 彼は基本的に無害な男だし、格好の練習相手になるぞ」
二人して目をやると、その男はソファーの後ろにもたれ掛って完全にダウンしていた。 グラスと瓶から手を離していることだけはさすがだったが、それだけだ。 それ以外では完全な駄目男になっている。 と、そんな駄目男がいる部屋へノックの音が響いた。
「今日は先客万来だな」
冗談めかしてそういうと、ワインに口をつける前に席を立ち来客を向かえに行く。 扉の先にいたのは、グリモアであった。
「どうも、室長を回収に来ました」
「ああ、今潰れたところだ。 持っていくなら好きにしてくれて構わない」
「潰れた……あの室長がですか?」
若干の驚きと共に、ザフィーラが視線を向けた先にグリモアが目をやる。 すると、確かにクライドがイビキをかきながら寝ているのが目に付いた。
「ボクには信じられません。 ここまで酒の席で無防備になったことなんて今まで無かったのに……」
「”君”と”彼女”の前では潰れんように控えめにしていたのだろう。 酔っ払い男は嫌われるのが世の常だ。 それぐらい、元主も考えていただろうさ」
「……まあ、いいです。 とにかく回収していきますよ」
「ああ、好きにしてくれ。 君なら彼を任せても大丈夫だろう」
我が子<クライド>を戦神の谷<グリモア>に突き落とす気分でザフィーラは言う。 這い上がってきたときにどうなっているかが実に楽しみであった。
「手伝おう」
「かまいませんよ。 仮初の身体とはいえ、室長の一人や二人運べないような柔な体ではありませんから」
「そうか……では、手が必要になったら言ってくれ」
「はい。 それではおやすみなさい」
「ああ」
クライドを背負っていくグリモアを見送ると、ザフィーラはリニスの待つソファーへと戻る。 リニスは我関せずの構えで飲んでいた。
「待たせたな」
「いえ、それより良かったのですか? あの状態の彼を彼女に任せるのは色々と”危険”な匂いがしますが」
「二人とも大人だ。 何かあっても十分に責任は取れるさ」
「そういう問題ではないのですが。 その……男と女です。 色々とあるのではないでしょうか」
「ああ、だから戦神の谷に落してきたところだ。 ”這い上がってくる”か”谷底に永住させられる”かどうかはこの後の展開次第だろうが、実に楽しみだな」
「驚きました。 貴方は割りと意地悪な狼さんだったのですね」
「色々と彼の成長を期待して見守っているだけさリニス。 さて、続きをしよう。 まだ時間も酒もたっぷりとある。 この際私に全部ぶちまけていくと良い」
「ええ、それではお言葉に甘えさせていただきます」
「そういえば、まだ乾杯をしていなかったな」
「そうでしたね。 何について乾杯しましょうか」
「”次元世界の歌姫”と”ヘタレ男”の更なる飛躍を願って、というのはどうだ?」
「ふふっ、良いですね。 それでは」
「「――乾杯」」
二人してグラスを鳴らす。 グラスの甲高い小気味良い音が、静かな部屋に流れた。 その後、ベッドで寝ているアリシアの話で二人して盛り上がっていく。 優しき使い魔たちの夜は、そうして静かに更けていった。
その日、盾の守護獣は懐かしい夢を見た。 夢の中の彼は、仲間たちと共に誰かのために自らを鍛えに鍛える。 全ては己の主人のために。 それは当時の記憶。 失った時の彼方の煌きである。
流した汗は忠義の証。 身体は盾で、研ぎ澄ました牙と爪は敵を狩る刃。 そうやって杓子定規に与えられた目的を遂行するための機械となることを彼は目指した。 いや、彼だけではない。 それが、そもそもの存在理由のようにさえ感じる者達はただただ時間を積み上げた。 その中には当然苦しいこともあったし、辛いこともあった。 けれども、それ以上に安らげた心地よい時間もまた在った。 優しい、時間が在った。
守護獣はマシン<機械>ではない。 ただの機械のように振舞うことはできても、機械にはなれない。 いつしか皆、その真理へと辿りついた。 その後で、ようやく己に刻まれた契約の意味に気づくのだ。 当然、彼もまたそれに気づき考えを改めた。
――ねぇ、良かったら協力して欲しいことがあるんだ。
対価は、死の先にある刹那の時間でどうかな。
その気があるなら私と、もう一度同じ時間を生きてくれないかな?
選ぶ自由は上げるから、その気があるならこっちに来て。
魔法の奇跡が私たちを繋いでくれるから。
そして、それを境に契約は成った。 世話になった生前の記憶は微かにしかないけれど、それでも死の先に行くことを彼は選んだ。 瞬間、二度目の生が幕を開けた。 ザフィーラが瞳を開く。 すると、太陽の光と共に見下ろす彼女<主>の相貌が露になった。
空は青く、草原では他の仲間が心配そうに見下ろしていた。 水平線が見えるその広大な大地の上で、かつて地を這う獣だった彼は二本の足で大地に立った。 人の視点はいつもよりも高く、彼の主が今度は見上げる側になる。 彼がその違和感の意味を与えられた知識から理解した頃には、金髪の主はクルリと背を向けて歌を歌い始めた。
『――♪』
集まっていた獣たちが、その歌声に引き寄せられるようにして後を追う。 彼も例外ではない。 自然と、足は意識せずとも旋律へ向かおうとする。 それは子守唄であり、集いの歌であり、癒しの歌であり、それは彼らを育てた二足歩行の母の歌だった。 やがて、女性の歌が終わる。 風の音だけが、草原の草を撫でながら歌い続ける。 その中で、ザフィーラはようやく認識を”今”に追いつかせた。
『済まない。 貴女のことを”完全”に思い出すのが少しばかり遅れた』
『お母さんを忘れるなんて、酷い子だ。 メッだよ』
『次があれば一番に思い出そう』
『次なんて君にはないよ。 これが最初にして最後のチャンスなんだからね。 だから――』
『ああ、分かっている。 君に拾われて生かされてきた命だ。 君の望みのために使うことに否はない』
『うわっ堅っ!? 私そんな堅い子に育てた覚えないよ。 もっと気楽に考えてくれたら良いのに……』
『むぅ? とは言われても、私には特にしたいことはないのだ』
獣だった彼にとっては、それこそ本能に裏打ちされた三大欲しか存在し得なかったのだ。 それ以外など、まだこの初めの瞬間には考え付きやしなかった。
『じゃあ、私と一緒に探してみる? 時間はまだあるからね』
『それで良いのか? 私たちの維持には負担がかかるのだろう』
『魔力量を最小にすれば大丈夫。 私は身体が弱いけど、大魔力持ちだから』
『……』
『どうしたの? 急に狼に戻って』
『負担になるのは本意ではない』
『そっか、”君も”優しい子なんだね』
『主を大切にしない守護獣などいない。 先輩方も、だからそうしているのだろう?』
『ふふっ、皆優しい子たちでお母さんは嬉しいなぁ。 じゃあ、行こうか。 自分の名前は覚えているかい? 君の名前は――』
「――”ザフィーラ”。 ねぇ、もうお昼だよザフィーラってば」
「……ん? ああ、アリシアか」
ふと、気が付けばザフィーラはソファーの上で寝ていることに気が付いた。 アリシアが心配そうに彼を見下ろしている。 上体を起こし、ソファーに座りながら周囲の様子に目をやる。 テーブルの上に在ったはずの料理やアルコールの空瓶たちは、どういうわけかなくなっていた。
「テーブルの上、片付けてくれたのはアリシアか?」
「半分はね。 リニスと一緒に片付けたんだ。 はい、お水」
「そうか……ん、ありがとう。 ……待て、リニスとだと?」
「うん。 一番最初に起きたのは私なんだけど、片付けてたらリニスも起きちゃって……」
「ほう……」
「私もびっくりだよ。 いつもは『それは私の仕事なのです、アリシアは休んでいなさい』って言うのにね」
ザフィーラはその言葉を聞くと、軽く苦笑しながらコップの水を煽る。 寝起きの水が、五臓六腑に染み渡るのを感じると同時に妙に清々しいものを感じた。
「それで、そのリニスは何処へ行ったのだ?」
「うん、ちょっと母さんに連絡することがあるからって部屋に帰って行ったよ。 なんか、大事な話ができたんだって」
「そうか。 しかし、だとすると色々と変わるかもしれんな」
「変わるって……何が?」
「なに、それはすぐに分かるだろう。 アリシアは今、”戦神の谷”の中にいるのだからな」
「……谷? ここ、ストラウスさんの家だよ。 もしかして、まだザフィーラ酔いが抜けてないのかな」
小首を傾げる少女の困惑をよそに、ザフィーラは台所に向かいもう一杯水を飲む。 すると、確かに洗い物の類がキチンと処理されているのに気が付いた。 恐らくはアリシアは水を拭かされた程度だろうが、それでも何もさせてもらえなかった程の過剰なそれが無くなったのであれば、大した進歩である。 そのうち、彼女たちが二人仲良く料理などをする日も来るのかもしれない。 そう思うと、やりたいことが一つできたことにザフィーラは気が付いた。 思わず、ソファーのところに居るアリシアに声をかけていた。
「アリシア、今度私やリニスと一緒に料理でもやってみるか?」
「教えてくれるの? 前は包丁が危ないとかってリニスに言われて諦めてたのに」
「なに、彼女の説得は任せておけ。 私がなんとかしよう」
「やった!! じゃあ楽しみにしてるね」
大喜び様子である。 やはり、色々と自分でやってみたい年頃になっているのだろう。 反抗期だなどとリニスは警戒していたようであるが、アリシアからはそんな不穏な空気は感じられない。 チャレンジ精神旺盛なのは良いことだ。 そんな風に考えながら、ザフィーラは頼もしげに笑うのであった。
やりたいことなど、それこそ無かった。 ただの”獣”にはそう思う心がない。 しかし、人工魂魄を与えられた彼らはマシンではいられない。 期間限定の都合の良い道具に成れても、それでも道具のままではいられない時がやってくる。 ザフィーラは、そういう意味では恵まれていた。 ミッドの使い魔などは短期使用のために造られることが多いというし、契約の仕方次第ではそう考える暇なく消費されることもある。 だが、彼は違うのだ。 そのことを、自身で良く理解しているが故にザフィーラは今日も”良い狼”になる。 まだまだ危なっかしい金髪の少女が居る。 ならばこの屋敷を離れることは彼にはできない。
――だから、彼に与えられた”死の先の日々”はまだ終わらない。
「主クライド。 今回の緊急招集の件、一体どういうことなのだ?」
一同を代表してシグナムが尋ねる。 ヴォルケンリッターのリーダーとして、まず初めに現状の把握に務めるその姿勢にクライドは大いに満足した。
「良い質問だ我が騎士シグナムよ。 俺はこの一月アルハザードを学び、そして気がついたのだよ。 俺は今までなんと”中途半端なことをして満足していたのか”、とな」
「中途半端ってなんだよ。 クライドはいつも徹底的に好き勝手やってるじゃねーか」
これ以上があるものかと、鼻で笑うヴィータ。 しかし、気になるのか腕組しながらもチラリチラリと視線をもったいぶるクライドに向けている。 実に可愛らしいアクションである。
「あの……なにかあったんですか? 私たちを全員招集するなんて今の状態だと、よほどのことが無い限りもうありえないと思ってましたけど……」
「ああ、冗談抜きでやらなければならないことができたんだよシャマル。 このミッションには守護騎士全員を強制参加させることを俺の独断と偏見が決定した。 故に集まってもらったというわけだな」
「ミッション……だと? この面子を集めたとなると、やはりどこかに攻めこむのか? 我らとしては主の命令には従うつもりだが、何をするのかぐらいは説明してもらいたいものだな。 作戦の成功確率を上げるためにも情報の共有は必要だ」
「分かっている。 皆まで言うなザフィーラ。 確かに作戦前のブリーフィングは必要だが、既に全員を集めた以上この作戦は既に成功率八割を超えているのだ。 いや、これから先に協力を頼んでおいたあの人と合流できれば、その時点で九割の成功を確信している」
「……なんだと?」
「そうそう、勿論リインフォースも参加だぞ? 大丈夫、荒事じゃあない。 アルハザードを乗っ取ろうとか、カグヤをボコそうとか、女性陣全員に俺の嫁になれとか、そんな無理難題を吹っかけるつもりは毛頭無いのだ。 しかし、このミッションは我が騎士たちだけにしかできないと俺は確信している」
「一体何をしようというのだ?」
五人の騎士がクライドを見る。 彼に向けられた五対の瞳には、戸惑いこそあれど不満は無かった。 我が騎士にしかできぬというフレーズ。 そこに主からの信頼の念を感じとった一同は、いまだかつて無いほどに気合が入れていた。
「お邪魔しまーす」
「おお、来てくれたかストラウスさん!? で、首尾の方は?」
「問題ないわ。 街中でベルカ式魔法を使ったりして住人に喧嘩を売ったりしないのであれば別に構わないわよ。 流儀さえ守ってくれれば基本的にはアルハハザードは全てを受け入れる。 この子達も直接何かしたというわけじゃあなかったしね。 リインちゃんは……まあ、連れてきたけど決行時は居なかったし目を瞑りましょう。 バレなきゃ大丈夫よ」
「オーケイ。 それならば問題は無い。 条件は全てクリアされた。 ストラウスさん、例のモノを」
「はいコレ」
手渡された用紙が一人一人テーブルの上に配られていく。 守護騎士+αは配られた用紙に怪訝な顔をする。 そこには、かつて誓約書と書かれていたモノと同じものが存在していたからである。
「……つまり、主クライドは我らにアルハザードに住めと?」
「近いが、違う。 これもまたミッションに必要な工程に過ぎないのだ」
訝しんだのはシグナムだけではない。 他の四人も怪訝な顔をするが、クライドはそれにはまだ答えない。
「……良いだろう。 何をさせたいのかは分からないが、主を信じよう。 これが必要だというのであれば、是非は無い」
「私も承諾しよう。 別段、アルハザードに敵対する意思などない」
そうして、次々と承諾の声が響き渡る。 全員が誓約書にサインし、アルハザードに入るための体裁を整えていく。 守護騎士はかつて護衛としてゲスト扱いでここに来たことがある。 アルハザード内部で行うミッションのためならばと、特に気にせずにサインしアルハザードへ入るための魔力情報やらの検査も受け入れた。
「よし、皆終わったな?」
全ての準備は整った。 この瞬間、守護騎士たち+αはゲスト扱いでアルハザードへの入る権利を得たことになる。 ニヤリと笑みを浮かべたクライドは、手に持っていた夜天の書を業とらしく皆の前に掲げる。
「さて、諸君には説明する前に実はもう一つだけやってもらわなければならないことがある。 それは、諸君らの”魔法プログラムの演算停止”だ」
「なに!?」
「おいどういうことだよクライド。 そしたらアタシらが存在できねーじゃねーかよ!!」
「ど、どうしてですか!?」
シグナム、ヴィータ、シャマルが立ち上がり、クライドに詰め寄ろうとする。 だが、クライドはそんな三人を無視して特に気にもしないザフィーラをリインに視線を向ける。
「二人は何も言わないんだな」
「私は主を信じている。 これはミッションのために必要なのだろう? ならば別に不満など言わんさ」
「それに、今の貴方は書の所持者であり管制AIを完全に御している。 今更私たちがどうこう言ったところで強権を発動させればそれまでだ。 なのに、一々尋ねてくれるということは別段我らに不利益を与えるつもりはないだろう?」
ニヒルに笑うザフィーラと、なんでもない風にクールに受け止めるリインフォース。 対照的な意見に別れたかに見えた守護騎士たちであったが、さすがに三人も二人の言葉を聞いては折れるしかない。 せめてその前に説明させたいところだったが、この流れではあまり追求しすぎては主を信じない不忠者になってしまう。 忠義に熱いベルカの騎士としての矜持が三人の不審感とせめぎあうが、結局全員従うことに同意した。
「安心してしてくれ皆。 その信頼に俺は必ず応えてみせることをここに誓うぞ」
珍しくシリアスなクライドである。 紳士に騎士たち一人一人の眼を見た後、頷いては命令を下す。
「よし、全員プログラムの完全停止をせよ!!」
「「「「「はっ!!」」」」」
一斉に守護騎士たちが魔力の粒子となって空気中に溶けるようにして消えていく。 その様を目に焼き付けるようにしながら、クライドは静かにその様子を見届けた後、静かに呟いた。
「――さようなら、”我が守護騎士”たちよ。 これが、俺の夜天の王としての義務の果たし方だ。 もう二度と”俺の騎士として会うことはない”だろうが、みんな幸せになるんだぞ……」
この別れもまた、更なる喜びを分かち合うための儀式である。 なんとなく眼を潤ませたクライドにそっとストラウスは白いハンカチを差し出した。
「す、すいませんストラウスさん」
「いいのよクライド君。 貴方は今、きっと誇れる選択をしたのだから」
零れ落ちそうな涙をハンカチで拭いながら、クライドは今はただストラウスの優しさに甘えるだけである。 手の中にある夜天の書をストラウスに差し出すと、先ほどまで皆が座っていたソファーに座り込む。
「しばらく、ここにいます。 ハンカチは後で洗って返しますよ」
「それは記念にあげるわ。 それじゃあまた後で――」
去っていくストラウスの背中を涙の滲む視界で見送ると、クライドは己の過去を振り返った。 なんだかんだ言って、初めは死亡フラグにビビっていたが、連中との生活は悪いものではなかった気がした。 女性陣とはデートした<遊びにいった>し、ザフィーラには学生時代に随分と支えられたものである。 一つ一つの思い出を出会った頃から思い返してみれば、なるほど人の出会いとは奇妙なものである。 リインフォースとの思い出はほとんど無いが、それでもアルハザードに来る前には暇な時間を利用してちゃっかりとヴァルハラで遊んでいる。 思い残すことはもうないだろう。
「……」
そのまま三十分程経過した頃、再びストラウスが戻ってくる。 クライドはいても経っても居られず、ストラウスに詰め寄っていく。
「どうですか!?」
「問題は無かったわ。 ジルのウィルスの駆除にちょっと梃子摺ったけどほら、この通り」
瞬間、クライドの眼前に五つの魔法陣が展開される 三角の魔法陣の中にある剣十字。 ベルカ式の魔法陣の中から、先ほど分かれたはずの騎士たちが姿を見せる。
「――おお!?」
思わず息を呑んだクライドは、やはりかつての騎士一人一人に視線を送る。 ザフィーラ、シグナム、ヴィータ、シャマル、そしてリインフォース。 皆欠けることなくそこに顕現し終えている。 何度も見ている実体顕現ではあったが、さすがにこのときばかりは胸に来るモノがあった。
「……むぅ? これは一体……」
戸惑うような声が聞こえる。 騎士たちは皆、自身に起った変化に戸惑いを隠せないようだった。
「説明しよう、”かつて”我が騎士だった者たちよ」
クライドがそう言うと一斉に騎士たちが視線を向ける。 右手に濡れたハンカチを持つ男は、そうして次の瞬間に爆弾を発言をかます。
「これで皆自由だぞ。 最後の夜天の王からの命令だ。 皆好き勝手に生を謳歌するように!!」
「「「「「――っ!?」」」」」」
「皆の魔法プログラムをアルハザードの方へ移動させた。 つまり、皆は夜天の書に縛られなくても良い存在として今日この瞬間に新たに生まれ変わったのだ!! おめでとう、諸君らはもう未来永劫自由だぁぁぁぁ!!」
「そ、それはつまり守護騎士<ヴォルケンリッター>は解散ということなのか主よ」
「うむ。 勢いで叫んでしまったが、つまりはそういうことだ。 もはや皆が俺を主扱いする必要はどこにも無い。 これからは知り合いのデバイスマイスターとか友人の男とか元主とか、そんな風な肩書きを持つただの男として接してくれるのがモアベターな関係といえよう」
言われた騎士たちは、その瞬間間違いなく絶句していた。 というより、思考が明後日の方向へと飛んでいた。 いきなり呼び出されてミッションがどうとか言われて構えさせられらたかと思えば、いきなりの守護騎士解散宣言である。 これで驚くなという方が無理であった。
「じ、自由に好き勝手生きるのが我々の新しいミッションだと、そういうことか”元主クライド”」
「そういうことだ。 しかし、随分と切り替えが速いなシグナム」
「いや、ただこれが最後のミッションというのであれば、やり遂げなければと思ってな。 最後の王から下されたミッションだ。 達成しないわけにもいくまい」
「そ、そうですね。 ちょっといきなり何を言い出すのかと思いましたけど、”そういうこと”ならやり遂げちゃいましょう。 ね、皆」
「ちっ、しょうがねーな。 そこまで言うならアタシもそのミッションをやってやるよ」
クライドが言いたいことは伝わったらしく、騎士たちは皆全力でミッションに当たることを誓う。 いつも好き勝手にしろと言ってきた主が、本当の意味で自分たちを好き勝手させようとしていたのだ。 苦笑しつつも、最後の任務に挑まない理由が彼らには無かった。
「まったく、本当に面白いことをする”元主”だ。 ふふ――」
リインフォースもまた、想像だにしなかったことを平然と実行されて戸惑ってはいたがそれよりも先にこみ上げてくる笑いを抑え切れなかった。 ここまで夜天の書を好き勝手してくれた主などいないだろう。 善意か義務感か好意なのか、一体どれなのかさえ分からなかったが、ここまでされると痛快な気持ちにさせられるから不思議であった。
その後、ベルカの騎士たちは『快適なアルハザード生活の栞』をストラウスから貰って一応の部屋と端末を手に入れると、次の日には皆が自分だけの日常へと帰っていった。 騎士たちは別にアルハザードでやりたいことがあるわけでもないので、一先ず今までどおりにヴァルハラを拠点に動くようだったが、それでもそれぞれが皆、本当の意味で新しい自分を始めようとしていた。
誰かに記憶を弄られるでもなく、誰かの命令に絶対服従させられかねないなどという事実も無く、自分で考えて自分で最後まで責任を持って行動する極当たり前な存在として、その日騎士たちは次元世界に回帰した。
――それは、彼らが遠い昔に失ったはずの”もの”だった。
憑依奮闘記
断章03
「歌姫と狼と山猫と」
――古の昔より、デバイスマイスターにのみ伝わる伝説がある。
デバイスの女神のご加護を得たデバイスマイスターは、途方も無いデバイスを作成できる。 それは、本当に夢のような伝説であった。 なるほど、神の加護を得られるのであれば確かに常軌を逸するデバイスを生み出せることもあるかもしれない。 彼女の大ファンであるクライドも、やはり当たり前のようにデバイスの女神様が降臨するのを常日頃から待っていた。
「……ぐあぁぁ。 ZZzzzz」
深夜である。 気持ちよさそうに黒髪の男が一階のソファーの上で眠っていた。 二階にも部屋があるが、彼が二階に上がると”碌な事”にはならないので絶対に二階には上がらない。 助手の人が毛布やら何やらを上から降ろしてくれたので、それに包まって眠るという生活を送っていた彼の寝床は、専らリビングのソファーの上であった。 偶に気が向けば空中にシールドを発生させてその上でも寝るし、研究室にある仮眠室で寝ることもあれば床に大の字で寝ていることもある。 だが、概ねソファーの上というポジションで寝ることが多かった。
その日は、失ったかつてのデバイスを作成し終えた夜だった。 ブレイドにアーカイバ、更に調子に乗ってバンカーナックルにマジックガンにと、とにかくここ連日大忙しの毎日だったせいで、さすがのクライドも疲れきっていた。
クライドはデバイスを愛する男である。 その愛し方は様々だ。 研究する、想像する、整備する、改造する、デレる、なんとなく話しかける、使用する、頬擦りする、塗装が剥げそうになるほど磨き上げるなど、本当に多種多様である。 しかしその日はいつもと違って夢の中でデバイスを愛でていた。 もやは完全にデバイス中毒者のそれであった。
「――zくぁwせftgyb!!」
と、瞬間奇声の如き悲鳴と共にクライドが上体を起こし、ソファーから飛び上がる。 その手にはいつの間にかブレイドが握られていた。 デバイスを愛玩中に恋愛テロリストにでも襲われる夢でも見たのだろう。 荒い息を上げながら周囲を睥睨して、薄暗く照らされた室内を見て安堵のため息を吐いた。
「ふぅぅ、夢か。 危ない危ない、またしてもグリモア君の甘い罠にかかるところだった」
冷や汗が流れる額を拭うと、夢の中まで追いかけてきた助手の行動に対して思わず青ざめる。
「お、恐ろしい攻撃だ。 物理的に制圧してマウントポジションを取った後に、我が愛すべきデバイスを人質に婚姻届への捺印を迫ってくるとは……さすがグリモア君。 俺の弱点を知り尽くしている……なんて恐ろしい娘だ。 一瞬あのままゴールしても良いと思った自分が情けないぜ」
戦慄の表情のまま、首を振るう。 本当に”紙一重”の戦いだったのだろう。 眼が覚めなければその脅しに屈していたのかもしれない。 リアルでも三度迫られたことがあった。 とにかく、彼女は分かりやすい既成事実を欲しているらしい。 隙を見せれば口撃してくる。 基本的には受身なリンディとは違って押せ押せ攻撃であり、クライドの難攻不落の防御に幾度と無く致命傷を負わせて来た。 とはいえ、クライドは基本的に天邪鬼でありヘタレであり、ロマンチストである。 意中の女性に振られた今、早々簡単に靡くようではその程度の思いだったのかと自身を諌めていた。 それは迷いだったのかもしれないが、とにかくこの迷いがあるうちはグリモアの気持ちに答えるわけにはいかないと、頑なになっていた。
或いは、それは大事にしたいからこその思考だったのか。 それは本人にしか分からない。 しかし、とにかくクライドは時間を欲していた。 時間が全てを解決するとは言わないが、それでもそう思えるほどの月日が彼には必要だったのかもしれない。
と、そんな迷える男がブレイドを仕舞ったその瞬間だった。 落ち着いた瞬間を見計らったかのようにクライドは”女神”に出会った。
元々デバイスについて四六時中考えているような男だ。 思考をデバイスに連結させて考えることには慣れている。 疲れて休眠を欲していた体に、ふとマッサージでも欲しいなと思った瞬間にはもう、そのデバイスのイメージが出来上がっていた。
「――キタ。 デバイスの女神が降りてきやがった!? か、神はやはり二十四時間眠らないのか!?」
その感覚をクライドは知っていた。 全身を襲う鳥肌が立ったかのような奇妙な感触と、興奮が加速させる心臓の鼓動。 疲れなど吹き飛ばす清涼たるイメージ。 焦燥を感じる息苦しさ。 二度目は無いという強迫観念にも似た衝動。 このイメージを失ってはいけない。 これは至高なる頂へと自らのデバイスマイスター位階<レベル>を上げるチャンスだと断じても良かった。
「メモ帳、メモ帳は何処にぃぃぃぃ!!!!!!」
ドタバタと、足音を響かせながらクライドが家の外へと駆けていく。 裸足だったが、知ったことではなかった。 一分一秒でも早くイメージを形にしなければ失われてしまう。 自分の家のメモ帳にメモをするはずが、どういうわけか研究室へのマラソンになっていた。 もはや、クライドは正気でせさえなかったのだ。
そのまま数十分走り続け、しかもその間に脳内で仕様を構築。 到着すれば入り口のドアを蹴り破る勢いで突入していく。 まるで悪魔にでも取り付いたような有様だ。
「あった、メモ帳。 ペン……ペン……ぬぉぉぉぉ、この際マジックでも構わぁぁぁん!!」
ひたすらにメモ帳にメモると、血走った眼で空間モニターを開き今度は狂ったようにタイピング。 日ごろから大絶賛されている目つきの悪さが、今日ばかりは凶悪を通り越して魔眼と化す。 恐らくは、今のクライドに睨まれるとその人物もまたデバイスの悪魔に取り付かれるだろう。 それは、それほどに凄まじいモノだった。
「……室長?」
研究室の入り口から、クライドの異常を察知して実家であるテインデルの家から起きだしてきた助手が声をかける。 白黒のパジャマの上にカーディガンを軽く羽織っている。 恐らくは寝ている最中だったのだろう。 しかし、そんな彼女の心配の声も今のクライドには届かない。 恐らくは今この瞬間、ヴィーナスでさえクライドの関心を得ることはできないだろう。 返答はなく、帰ってきたのは沈黙。 グリモアはその尋常でない様子を見て、息を呑んだ。
クライドは止まらない。 今度はいきなり席を立つと、パーツを保管している倉庫まで走り去っていく。 そして、数分も経たずに戻ってくるとパーツをぶちまけて組み立て始めた。 その頃になって、グリモアにもようやくそれが見えた。
「あああ、見える。 見えます。 ボクにも見えますよ室長。 今の室長には本物の神が降りてます……これが、デバイスの女神ですか!?」
機人でさえ恐れ慄く。 其れは正に人外の所業だった。 図面さえ書かず、クライドが滅茶苦茶にパーツを組んでいくというのに、それはしっかりと形になっていく。 研究室の機材の稼動音と、時折響くデバイスマイスターの咆哮。 普通に考えればもはやそれは人ではなく妖怪の類だろう。 しかし、グリモアはその変態を通り越して神掛かった神技を振るうクライドの様子を食い入るように見つめていた。
何かに一心不乱に打ち込む姿というのは往々にして格好いいものである。 例えそれが常人には到底理解できない未知の何かでもだ。 クライドのその姿は、その瞬間だけ存在が許される一種の強烈な芸術のようなモノでもあったのかもしれない。
グリモアにとってのクライドの最も格好いい瞬間というのが、今正にこの瞬間である。 助手として超至近距離から観察してきた彼女を虜にした最大のそれは、正に邪念の隙の無い崇高な姿という奴だ。 それは時折見せる技術者としての顔であり、グリモアしかほとんど見たことがない鮮烈な輝きだった。 これに匹敵する輝きを拝むにはもう、デバイスのスクラップ山にクライドを放り込むしかない。
「っしゃーーーー!!」
「あ、室長!?」
数時間後、一際大きい歓声が木霊した。 その次の瞬間、電池が切れた玩具のようにクライドが床に倒れる。 しかし、グリモアは確かに見た。 先ほどまでクライドが作業していた作業台の上に、しっかりと鎮座するデバイスがあったことを。 夜明けの光のせいか、一瞬眩いほどの光を放ったそれに、グリモアは未だかつて無いほどのオーラを感じた。 が、それも一瞬のことでしかない。 熱が冷めてしまえば、すぐにそれへの関心は無くなった。 床の上に倒れたクライドの傍まで駆け寄ると、仰向けにして状態を確かめる。 呼吸、脈拍共に正常。 異常は無い。
「良かった。 魂までは持っていかれてませんね」
放心したような状態のその男は、恍惚な笑みを浮かべて不気味に笑っていた。 百年の恋も冷めかねないほどの緩み顔である。 が、生憎と機人であるグリモアは正確な意味での造詣は理解していないので華麗にスルー。 クライドが正気に返るまで膝を貸した。
「……お、おお? グリモア君ではないか。 これは一体……」
「お疲れ様です。 女神様の加護を賜ったようですね。 完成した後に倒れましたけど、大丈夫ですか?」
「はっ、そうだ。 デバイスはどうなった!!」
「ちゃんと完成してますよ」
「な、なら良かった。 もう、思い残すことはあまりない。 このまま床の上で寝させてくれ。 ガクリ――」
トランス状態が長すぎて、疲弊しているのだろう。 バリアジャケットを展開して風邪引きを防止すると、すぐに意識を手放すクライド。 その顔を見下ろしたまま、グリモアは微笑みを浮かべた。 好き勝手やって満足し、疲れて眠りこける大きな子供を相手にしているようで微笑ましい気分になったのだ。
「”男は一生大人にはなれず、女だけが大人になれる”。 ということは、やっぱり室長は子供のままなんでしょうね。 まったく、手のかかる人です」
すぐに無防備に寝息を立て始めたクライドの黒髪を梳きながら、悪態にも似た呟きをこぼすグリモア。 だが、やはりその顔は優しく笑ったままだった。
「これは……えーと、なんなのかしら」
その日、ストラウスは世にも奇妙な物体を見た。 一見するとリストバンドに近い形状のものである。 だが、それには必要ないパーツがついている。 それはコードだ。 コンセントへと差し込むプラグとコードがついているのである。
「実は本日は業界に革命を起こす発明を完成させるために参った次第。 これはその試作品。 中に必要なデータはまだ無いが、これがそのデータを得て完璧になったその日に、次元世界が震撼することになるだろう。 儲けはいらないから、完成させるために手を貸して貰えないだろうか」
神妙な顔で黒髪の男は言う。 ストラウスにとっても一応見知った男だった。 近づかれるのは苦手なので、受付のカウンターから今にも身を乗り出しそうなその男から二歩離れ、発言の意図を吟味する。 要するに、男は儲け話を持ってきたつもりなのだろう。 善意で個人的に優遇するのは構わないが、会社関係となると儲け話にならないモノはストラウスは綺麗な笑顔で断る。 が、男の発明にはサバイバルデバイスという過去の実績がある。 慎重に構えながら、とにかく話を聞くことにした。 そもそも、これが一体何なのかさえ彼女には分からないのだ。
「室長が言うには、これはサバイバルデバイスを軽く超える可能性を持っているそうです。 ボクはこんな”デバイス”は馬鹿馬鹿しいと思うのですが、どうしても世に出したいというので相談に来ました。 確かに、売り方によっては売れると思います。 一考してくださいストラウス」
助手が健気にもフォローを入れつつ、企画書を差し出してくる。 それを受け取ったストラスはすぐに文面に眼を落とし、頬をヒクつかせた。
「あ、アリシアちゃんを起用するの?」
「ああ、出来れば彼女の名声もお借りしたい。 後、その道のプロを一人と顔写真を出しても良い美男美女を一名ずつ。 バリエーションとして後は老人方に人気がでそうな甘い声を出せる孫っ子も入れたいところではある」
次元世界の歌姫を起用させろというその男。 本気で手段を選ばないつもりのようである。 ミーアが自らの毛並みと可愛らしさを武器にして売り込んできたサバイバルデバイスと同じで、確かに今度の品も面白そうではある。 が、ここでアリシア<歌姫>を投入するかどうかはさすがのストラウスも迷う。 とはいえ苦笑いの表情のその内心では冷静に損得を考えていた。
アリシアのファンで、マニアなら間違いなく”買う”だろう。 後は、アリシア抜きでどれだけ売れるかだが、プロを使うというのとバリエーションを作ることで幅広くカバーしようという戦略が企画書からは読み取れた。 これに、ミッドガルズのブランドと信頼性を上乗せするとすれば、最低でも採算ぐらいは取れるだろう。 とはいえ、このデバイスは未知数の品だ。 しかし、応用させれば他にも面白い商品が作れないこともない。 少しばかりアルハザード系の技術流出が懸念されたが、許容範囲内といえば許容範囲内。 当たれば二つ三つと次の品を出すこともできるだろう。 勿論、一発ネタで終わる可能性も無きにしも非ずだ。 売り出すとしたら、相当に慎重に扱う必要がある。
「うーん……それじゃあ、カノンちゃんの顔を立てて条件付で了承しようかな?」
「ありがとうございます」
「でもクライド君。 作るのなら”本気”で売れるようなモノに仕上げてね。 それと、分かってるとは思うけどアリシアちゃんのイメージを壊すようなものも駄目よ」
「勿論、それは留意するしそっちの開発部と打ち合わせのときに検討してもらう。 とにかく、俺はこれを世に出して次元世界に新たなる癒しを提供したいのだ。 そっちは純粋に儲けを好きにしてくれればいいし、アリシアちゃんはそれで更なる話題を掻っ攫ってくれればいい」
「三者一得……ね」
「ついでに、プロの人も名が売れて儲かれば言うことなしだ」
「でも、そんなに上手くいくのかしら」
「ストラウスが”承認”する仕事は金になる。 これ、自治世界連合の界隈じゃ有名な格言らしいんだが?」
「ふふっ、世間の風評と現実は違うかもしれないわよクライド君」
クライドのヨイショに苦笑すると、ストラウスは内線で開発部の人間を呼び出す。 と、空間モニターが開かれその向こう側に白衣姿の男が出てきた。 中年親父を地で行くその男は、よれよれの作業服をそのままに怪訝そうな顔をしていたが、ストラウスの姿を確認するやいなや慌てて表情を変えた。
「ヤマダ君、ちょっと今の仕事と平行して一つやってもらいたいことがあるんだけど……そっちは大丈夫かしら?」
『といいますと?』
「追加でこの彼、クライド君が売り込んできたものを完成させて見積もりも出して欲しいのよ」
『それは構いませんが……社長、新バージョンのサバイバルデバイスの開発案が中々纏まらないので、少しばかり時間を融通して欲しいのですが』
「あら、じゃあ丁度いいわ。 彼に相談してみてくれる? 一応アレの発案者だから」
『な、なんと!? それはありがたい。 分かりました、手が空き次第取り掛かりましょう。 あの奇怪な作品を生み出した生みの親ならば、さぞかし常人から突き抜けたアイデアを賜れるでしょうから』
「期待しているわ」
通信を切ると、ストラウスは言う。
「というわけで、少し協力して欲しいのだけど構わない?」
「ああ、丁度バージョンアップ版の構想もある。 そっちも提案してみよう。 っと、グリモア君はどうする?」
「ボクはボクでストラウスに話がありますから自由にさせてもらいます」
「了解だ。 んじゃいってくる」
足取りも軽やかに去っていくクライド。 軽くそれを見送ると、二人は話を続けた。
大多数の普通の家庭には、母親がいれば父親もいる。 であれば、当然次元世界の歌姫にもそういう者がいたはずだった。 もっとも、大多数が必ずしも絶対というわけでは当然ない。 その中でも離婚というのは珍しくもなんともないことで、一つの結末として存在している。 男女の仲とは揺れ動く振り子だ。 結局のところ最後の最後までどうなるかなんてのは分からない。 熱く燃えるような恋に焦がれて一つになっても、何かあれば道を違えることなどザラにある。 理由など何でも良い。 何か耐えられぬことさえあれば、それだけで良いのだろう。 例えば、それが生活のすれ違いでも。
仕事と家庭の両立。 言うだけならば簡単だが、それをこなし続けるには少しばかりのエネルギーが必要なのかもしれない。 それに耐えなれなくなった瞬間に、その夫婦の道は分かれた。 ただ、それだけのことに過ぎない。
「……ん、随分と大きくなったなアリシア」
「父さんは老けたね」
「そうか、まだ私のことを覚えてくれていたのか」
感慨深げに微笑む父親を前にして、アリシア・テスタロッサはただそう呟くことしかできなかった。 どういうつもりで会いたい、などと父親が言って来たのかは分からない。 しかし、それでもそれをリニスとプレシアがずっと彼女に黙っていたことは少しばかり残念だった。 事が露見したのは、偶々リニスがその父親からの手紙をアリシアが見る前に処分し切れなかったからである。
プレシアと父親との間で親権やらの決着はついてはいたが、父親が娘に会いたがる気持ちというのはなんとなく想像できた。 だから、こっそりとザフィーラを伴ってミッドガルズ本社から一番近い公園のベンチにやってきていた。
父親の顔はもう記憶にはほとんど残っていなかったが、それでもアルバムには残っていた。 その時の顔と比べて見れば、随分と老けているようにも感じられた。 だが、その金髪は彼女のそれのルーツと思えるほどに存在を主張し、黒のスーツは小奇麗な身を装っている。 久方ぶりの娘に会うためにめかし込んできたのか、それともそれが普通なのかはアリシアには分からない。 だが、少なくとも嫌な感じというのをアリシアはこのとき感じなかった。
対するアリシアと言えば、私服の上に目深な帽子にサングラスを装備し、膝の上に子犬フォームのザフィーラを抱きかかえて目立たない用に偽装していた。 一応有名人であるという自覚があったから、大抵外を歩くときはそういう出で立ちの時が多い。
平日の昼間だ。 偶々休みである自分はともかくとして、公園の人通りは主婦やら子供やらが多い。 どこか浮いているような気がしないでもなかったが、アリシアはあまりそれを気にしない。 それよりも、自分の父親がどういうつもりで自分に会いたがっていたのかが気になっていた。
「……どうして、父さんは私に会いたがったのかな?」
「父親だから、では駄目かな」
「母さんはどうせお金目当てだって、言ってたよ。 前のときに」
「それは心外だな。 プレシアは怖かったのさ。 彼女は母親で、私は父親だ。 私に取られると思ったらそういうことも言うさ。 アレはアリシアには甘いからな」
「ん、母さんは優しい人だから」
「そうだな……」
「ねぇ、本当はどういう意味があったの?」
子狼の体をギュッと胸元に抱きながら、探るようにサングラス越しにアリシアは言う。 父親はその様に苦笑しながら視線を外し、遠い空を見て寂しげに口を開く。
「テレビを見ると、アリシアの歌声が聞こえる。 街に出れば、成長したアリシアのポスターを見かけるようになった。 有体に言えば未練……だったのかもしれない。 プレシアを私は愛していなかったわけではなかったし、アリシアも愛していたはずだった。 なのに、いつの間にか私とプレシアはすれ違い、こんなになってしまった。 だからそう、きっとこれはそう……未練なんだろうな」
自嘲するような呟きの奥には、何か眩しいものを見るような憧憬がある。 或いは、男は振り返っていたのかもしれない。 アリシアにはもう思い出せない、三人で居た頃の生活というのを。
「それで、居ても経ってもいられなくなってな。 未練がましく手紙を書いた。 アリシアがどういうつもりでここにきてくれたのかは分からないが、それでも娘と直に話せて少しばかり嬉しい。 ……元気にやっているか?」
「うん」
「母さんと喧嘩したりしてはいないか?」
「しないよ。 私は母さんが好きだから」
「今は、幸せか?」
「当たり前だよ」
「そうか……」
多くを語る言葉はない。 一つ一つ噛締めるような、そんな風に父親は問い、それにアリシアは間髪入れずに言葉を返す。 それに一々頷きながら、父親は寂しげに笑う。 自分<父親>がいない世界であっても幸せだという娘の言葉は、何よりも重くそして苦いものだった。 当然、気持ちが沈まなかったといえば嘘であるが、父親はそれを隠すようにして懐に手を伸ばす。
「アリシア、実は今日一つお土産を持ってきたんだ。 受け取ってもらえるか?」
「お土産?」
「何が良いのか私にはわからなかったが、最近管理世界でこういうのが流行しているらしい。 会うのはこの一回にすると決めていたから、記念になるようなものが良いと思ってな。 勿論、捨ててもらっても構わん」
差し出したのは、ペンダントだった。 ただ、それは普通のペンダントというわけではなさそうだ。 角ばった紫色のクリスタルのその中に、何やら髪の毛のようなモノが入っている。
「ヘアークリスタルとかいうらしいな。 偶々CMでやっているのを見たよ。 友達やら家族や恋人なんかの髪の毛を入れてお守りにするらしい。 どうせなら何か残るモノがと思って、コレに決めた」
「そっか。 ありがとう父さん」
受け取ったそれを早速首にかける。 胸元に揺れるクリスタル、その中には自分がいる。 それならば、自分が居なくても、娘と一緒に入れるような気になることができる。 単なる妄想とかそういうものに近いものであっても、そう思えることこそが重要だったのかもしれない。
「それで、少しアリシアに頼みがあるんだ」
「……頼み?」
「実はな、それをもう二つ用意してきているんだ」
「二つ?」
「ああ、一つはアリシアの好きなようにすれば良い。 プレシアの髪の毛を入れてお守りにするといい。 ただ、一つは私が持っていたいんだ。 そこでお前の髪の毛をくれないか? そっちは私のお守りにしたい」
「……」
「嫌なら諦めるが……どうだ? 父親からの最後の頼みだ。 お前の近くにはいられないとしても、お前の一部と一緒に居させてくれないか?」
「……いいよ」
「ありがとう」
懐から更に二つのクリスタルを取り出す父親は、それをアリシアに手渡す。
「一応ハサミは用意してきたが……大丈夫か? 芸能活動に支障をきたすようなら、別に今じゃなくても後で送ってくれればそれでも良いが……」
「ううん、別にバッサリ斬らなきゃ行けないわけじゃあないでしょ? だったら大丈夫だよ」
長く伸びた金髪を、取って、三、四本短めに切る。 そうして、掴んだ髪の毛をクリスタルに入れた。 クリスタルが濃い色になっているのは髪の毛が入っているとは意識させないためなのだろう。 クリスタル単体であってもアクセサリーとしての違和感は特に無い。
「はい、これでいいかな?」
「ああ」
大事そうにそれを受け取ると、すぐにそれを娘のように父親は付ける。
「ふふ。 それ、スーツには似合わないね」
「みたい……だな。 はは、ちょっと勿体ないがポケットに仕舞っておこう」
二人して苦笑い。 それが、父親と娘の最後の邂逅。
「……そろそろ行くよ。 すまなかったな、忙しい中時間を取らせて」
「もう行くの?」
「あんまり長く話していると地が出る。 父さんはこんなスーツよりも、実は研究室の白衣の方が性に合ってるんだ。 首元のネクタイが窮屈でいけない」
「……そっか。 父さんもお仕事頑張ってね」
「ああ、アリシアもな」
ベンチから立ち上がって、アリシアの頭にポンと手を置く。 そうして、背を向けると父親は一言だけ言って公園を去っていった。
「さようなら父さん」
「ああ。 さようならアリシア」
去っていく父親の背中に一声かけて、そのまましばらくアリシアはボンヤリと空を見上げる。 その右手は、なんとなく胸元のクリスタルを弄っていた。
「父さんと母さんはね、確か私が二歳か三歳ぐらいの時に別れたんだって。 私は母さんの方に引き取られて、性は”テスタロッサ”に戻ったんだけど……ほとんど父さんの記憶がないんだ。 だから、そう。 ちょっとだけ今日は、期待してたのかもしれないんだ」
「そうか」
「でも、やっぱり分からなくなっちゃった」
左手でザフィーラの毛並みを撫でながら、アリシアは呟く。
「どうしてかピンとこないんだ。 あの人は父さんのはずなんだけど、私にとってはもうそういう対象じゃあないのかも……」
居心地悪そうに言うアリシアを、ザフィーラはただ黙って見上げた。 持て余す感情の行き先が分からないのだろう。 父親との時間が少なすぎたアリシアにとっては、もはや父親などいないのが当たり前となっているのかもしれない。 そんな彼女の所にやってきた、一度だけで良いから会って話をしたいという父親からの切実な思いが込められた手紙は、何がしかアリシアにとって思うところがあったことは想像に難くない。
「会って後悔したのか?」
「わかんないや。 さっき、父さんは長く話していると地が出るって言ってたけど、私の方も多分そうだったのかもしれない。 私はきっとあの人の娘を演じてた。 それは父さんも同じだったのかも。 優しい父親を演じてくれてたって、そんな気がするんだ」
「演じていたのではなく、二人ともこの瞬間だけはそう在りたかったのではないのか? 私はアリシアの父親がどういう人間かなどとは知らないが、少なくともアリシアのことは少なからず知っている。 私にはそんな風に見えたがな」
「そう……なのかな」
ザフィーラはそう言うが、アリシアにはその自信がどうしても湧いてこない。
「まぁ、何はともあれこれから先の人生で何かが劇的に変わるというわけでもあるまい。 プレシアとリニスが君にはいるのだ。 それだけで十分に幸せなのだろう? だとしたら必要以上に気にすることもあるまい」
「なんか、ちょっと冷たい気がするよ」
「しかし、だからといってプレシアたちから離れてあの男の所に行くつもりはないのだろう?」
「それはそうだよ。 私は、私の居るべき場所に居るんだから」
「ならばそれで良いのだと私は思う。 あの男に今が幸せだと答えたのだ。 だったら、その分プレシアやリニスの二人と一緒に幸せを謳歌すると良い。 その方がきっと、あの父親としても踏ん切りがつくだろうさ」
「そういうものなのかな?」
「少なくとも私が父親だとしたらそう思うだろう。 ”善良な父親”というのはきっと、そういうものだ」
アリシアの膝の上から飛び降りるザフィーラ。 首輪から伸びるリードがベンチの上から地面に落ちそうになるすんでのところでアリシアが慌てて掴む。
「わわっ、もう帰るの?」
「いつまでもここで考え込んでいても埒が明かぬ。 ならば、気晴らしに散歩でもすれば良い。 天気も悪くないしな」
「……そうだね。 ん、それもいいかな」
小狼がトコトコと小さな体躯でありながら力強く先陣を切り、急かされたアリシアはその後に続く。 公園の樹木と木漏れ日。 緩やかな午後の日差しは涼しくもなく暑くもなく丁度良い。 のんびりとした空気。 故郷のミッドチルダ南部のアルトセイムと比べれば喧騒は比べ物にならない程響いているが、それでも確かにのんびりとできるような気がしてアリシアの足取りが少しばかり軽くなる。
四年前、コンサートツアーが終わってからのオフの日にアリシアはザフィーラたちが居なくなったことを初めて知った。 次元世界を巡るせいでアルトセイムの事件のことなど全く届いていなかったのだ。 いつもザフィーラがいるはずの家はそこにはなくて、そこあったのはただの瓦礫の山。 何があったのか分からず、しばし呆然とした。
付近の住人に聞けば、何かの事件にあって使い魔は行方不明になっていると聞かされた。 あの頃は随分と悲しくなったものである。 だが、どういうわけかひょっこりとまたその子狼とその主の青年はコンサート会場に現れた。 その時、アリシアは嬉しくなって思わずメイクをやり直すハメになってしまったものである。
「そういえば、ザフィーラはこれ知ってる?」
胸元のヘアークリスタル。 確かに、今現在管理世界では流行しているらしい。 主に若者の間では恋人間での間を繋ぐものとしての意味合いが強いみたいだが、確か様々な色のバリエーションがあったことをアリシアは覚えていた。
「いや……よくは知らないな。 管理世界では流行していると先ほど言っていたが、自治世界の界隈でも流行しているのか?」
「こっちではそうでもないみたい。 ストラウスさんも一口噛まないかって商談を受けたみたいだけど、断ったって話してたから。 なんかね、”嫌な感じがする”から扱わないんだって言ってた」
「ほう? 彼女が手を出さないというのであれば、あまり流行し続けるものなのではないのかもしれんな」
「かもね。 ストラウスさんは”業者泣かせ”で有名だから……」
ストラウスが断った商談はことごとく失敗する。 ある意味で、嫌なジンクスである。 その情報が他社に洩れるとヴァルハラでは確実に誰もその商談を受けなくなる。 未来を読んでいるのではないかというぐらいに、その読みは外れない。
「でもちょっと素敵だと思わない? 離れた二人を繋ぐクリスタルなんだよ」
「そのファンシーとかいう感覚が男の私には分からない。 まぁ、乙女心を疼かせるものだということは分かったがな」
「もう、そういうところザフィーラは淡白だよね。 クライドお兄さんなら分かってくれそうなんだけどなぁ」
「元主はまぁ……アレでデバイス占いなどが好きらしいし、ロマンが好きだ。 そういうのも確かに理解できる感性を持っているかもしれんが……多分こう言うだろうな」
苦笑しながら、ザフィーラは後ろを振り返る。
「『良い男が見つかったときにでもしてあげれば喜ぶぞ』、とな」
「ふふっ、確かに言いそうだね。 そうなったら多分、母さんとリニスの厳しいチェックが入るよ」
「そういえばもう十八だったか。 そろそろ周りが放って置かないのではないか?」
「どうだろうね。 私の事務所は”ストラウスさん”がいるから、誰も下手に手を出せないってカグヤさんが言ってたけど……」
「それは手強いな」
「多分そのストラウスさんとリニスのせいだと思うんだけど、何故か異常に私の周囲には女の人しかいないんだ。 SPの人は除いて……だけどね」
芸能界だろうが経済界だろうがストラウスの管轄にあるという意味は”凄まじい”。 ヴァルハラは言うに及ばず、自治世界連合内ではその名前だけで十分な虫避けになる。 管理世界ではそうでもないが、それでもミッドガルズと末永く商売をしたいと考えている連中ならばまず間違いなく自重するようになっていた。
「元主曰く、”男は皆狼”らしいからな。 それぐらいが丁度良いのかもしれん」
「”悪い狼さん”は怖いもんね」
「とはいえ、自分で言っておいてなんだがこの例えは酷く狼のイメージを侵害しているような気がするのだ。 あまり気持ちの良い言葉ではないな」
「ふふっ、そうだね。 ”良い狼さん”もいるはずだもの。 一緒にしたら可哀想だよね」
狼本人が言っていて気分を害しているのだから、確かに面白くないのだろう。 一括りにされてしまっていることに憤慨しているザフィーラの後ろでアリシアはクスクスと笑った。
新しい曲作りのためにストラウスの家に厄介になっていたアリシアは、ようやくいつものように朗らかな笑みを浮かべた。 ザフィーラはその気配を背中で感じながら安堵する。 少しばかり業とらしかったかもしれないが、変に考え込むよりは良い。
何も感じなかったら、そもそも父親に会いになどこないだろう。 もしここで会っておかないことを選択したとしても、知ったことで後でモヤモヤすることもあるかもしれない。 丁度ストラウスの家で番犬のアルバイトをやっているザフィーラに声をかけてきたのは行幸だった。
盾の守護獣とは夜天の王を守るために存在していたわけだが、今現在、夜天の王などどこにもいない。 シグナムやヴィータ、それにシャマルなどは速い段階で自分のやることを決めているようだがザフィーラには少しばかり迷いがあった。
一応フリーランスの資格と、護衛の資格を取ってストラウスの家で番犬の仕事をしていたが、それで良いのかと思う自分がそこにはいたのだ。
シグナムはシリウスに付き、ヴィータはリインフォースとミーアの所に行き、シャマルは新しい自分を始めている。 ザフィーラだけが何かに取り残されているような、そんな気持ちにさせられてしまっていた。
好きに生きろと主に言われた。 皆、その最後の命令に従って生きている。 自分を取り戻し、自分の望むままに生きている。 それはとても素晴らしいことだと思うのだが、ザフィーラだけは他の三人とは赴きが違う。 その部分が戸惑いとなって彼を迷わせていた。
剣の名家のシグナム、武器の名家のヴィータ、索敵や支援の名家であるシャマルとは根本的に違うのだ。 本来なら盾の名家の”人間”がいただろう位置に、病弱な盾の名家の主の変わりに派遣されたのがザフィーラである。 命令系統としては確かに夜天の王が最上位だが、ザフィーラにはザフィーラの真の主がかつて居た。 であれば、夜天の王無き今本来であれば彼はその元の主の所に帰らなければならないことになる。 だが、もはやその真の主も生きているはずはない。 そして、今まで己の使命に忠実に生きてきた彼である。 すぐに何かを見つけるというのは難しかった。
他の三人もほとんど境遇は似ているが、微妙なその違いが三人との違いを生み出していた。
かつて病弱な主の代わりに夜天の王を守ると約束した。 だが、もはやその約束は守れない。 クライドを守るのも有りといえば有りであったが、その主は好きにしろなどという最後の命令を発して守護騎士を事実上解散させた以上は使命感だけで守護に付くのは何かが違う気がするのだ。
通常の使い魔<守護獣>は役目を終えるか主である主が死んで魔力供給がされなくなれば消えるだけの存在だ。 だが、魔法プログラムである彼は例外存在となって存在している。 それも、身柄は今現在完全にアルハザードの中にある。 完璧に演算されている魔法プログラムのおかげで、使命を終えても消えることなく顕現していた。 そのことで、少しばかり普通の守護獣たちとは違う存在に昇華されてしまっている。
恐らくはきっと、贅沢な悩みなのだろう。 それが分かっていながら、ザフィーラはまだそれでも迷っていた。
「ザフィーラ?」
考え事をしてふと歩くのを止めたザフィーラを訝しんで、アリシアが声をかける。 だが、ザフィーラは「何でもない」と軽く首を振るって散歩を継続することにした。 アリシアの相手をしているのは、自分がそうしてやりたいからであり、それ以上でもそれ以下でもない。 それだけは、迷う必要など無いことであった。 だったら、精々今はこの贅沢な散歩とやらを続ければ良い。 ザフィーラはそう前向きに考える。
――そうして、歌姫と狼はしばし散歩を楽しんだ。
「わわっ、珍しくクライドお兄さんがリニスと一緒にいるよ」
「確かに珍しい組み合わせだな」
散歩を終えて自分の部屋に帰ってきたアリシアは、帰ってきた二人にも気づかずに論議している二人を訝しんで思わずザフィーラに声をかける。 ザフィーラも珍しい構図に一瞬首を傾げたが、すぐに二人の間にある物体に眼をやって納得した。
それは、一見すると柄の長い斧だった。 漆黒の戦斧を間にテーブルに対面した状態の二人が、ああだこうだと会話している。
「何してるのかな?」
「大方デバイス談義だろう。 リニスは納得がいくまで突き詰めるタイプだし、元主はデバイスに関しては言わずもがなだ」
リニスはアリシアの世話役として手を抜かない性格だ。 そのせいで大方本職であるクライドに色々と尋ねているのだろう。 デバイスを自ら組むことができるリニスとしても、元管理局のデバイスマイスターの意見を聞くことはプラスになるのだった。
「――であるからして、近接主体のデバイスにマガジン型のカートリッジシステムを取り付けるのはよろしくない。 アレは自動式だからガンガン衝撃を与えたりするとカートリッジがロード時にジャムる可能性があるため少し不安だ。 近接用に使うんなら、基本的に単発式か連装式がお勧めだ」
「しかし、連装式や単発式だと装填数が少なすぎて使い切った場合に弾数に不安が残ります。 近接時にはそう簡単にカートリッジを補給する暇を取れるとは思えません」
「ああ、だからそういうときのためのリボルバー型を俺はお勧めする。 さっきの二種類よりも装弾数は少し多いし、アレだと近接時の衝撃にも強いからカートリッジがジャムる心配はしなくていい」
「……では補給の問題は?」
「スピードローダーがある。 アレで一気に弾丸を補充だ。 それが面倒なんだったら、弾倉部分をまるごと変えるタイプもリボルバー型では在るからそれでいいだろう。 単発、連装式は弾丸の装填数が少ないから補充する暇さえ与えなければ初期の装弾数差で持って有利に戦えるはずだ。 遠距離ならそもそも攻撃喰らったり近づかれるまでの距離がある。 なら、十分それで戦えると思う」
「なるほど……ならば速度重視のオールラウンダー型にはやはりリボルバー型が一番だと貴方は仰るのですね?」
「ああ、それが一番無難な選択だと俺は思う。 好みの問題にして単発式や連装式にしてもいいが、間違っても”近接用”にも使うデバイスにマガジンタイプはするべきじゃない。 ここ一番の勝負時でジャムられたら目も当てられん。 マガジン型で近接戦闘をせざるを得ない状況はあるかもしれないが、だとしてもデバイスマイスターからすればそれは余りやって欲しくない戦術だよ。 整備も面倒になるだろうし」
クライドはそう締めくくると、そこでようやく帰ってきた二人に視線を向けた。
「ん、二人ともいつの間に帰ってきてたんだ?」
「ついさっきさ。 それよりも随分と話が弾んでいたようだったが」
「ミッド式でカートリッジシステムを搭載しようなんていう貪欲な魔導師は”今はまだ少ない”んだ。 アレはいい面もあれば悪い面もある。 慎重に導入を考えているリニスさんに、プロとして相談に乗っていただけさ」
「ふむ、向こうでも相変わらずのようだな」
「そっちもな。 おかえり二人とも。 待ってたぞ」
「ただいま」
「おかえりなさいアリシア」
戦斧型のデバイスを待機状態にしながら、リニスが笑顔で二人を迎える。 と、すぐに戻ってきた二人のためにお茶の準備を始めた。 それを確認しながら、二人はクライドを伴ってテーブル席に向かった。
ザフィーラは相変わらずアリシアの膝の上に招かれている。 クライドはその姿を見て苦笑した。 気に入られている様で何よりである。 さすが、記憶をアリシアの歌声で取り戻しただけのことはあった。
「それで、また随分と突然にやってきたクライドお兄さんの目的は何なのかな。 確か、すごく遠い所に行ってたんだよね? お仕事のついでに寄ってくれたの?」
「まぁそんなとこさ。 ストラウスさんに売り込みたい物があったんでね。 それに関連してアリシアちゃんにも手伝ってもらいたいことがあるんだが……」
「私に?」
「ああ、百聞は一件にしかず。 まずはコレを見てくれ」
クライドがテーブルの上にそのデバイスを展開する。 それはまさしく、あの例のブツである。
「デバイスか?」
「えと、何かなこれ」
さすがにザフィーラにもアリシアにもそれが何なのかが分からない。 リストバンド型のデバイスであるというだけならばまだ理解のしようもあるが、プラグが付いているのだ。 有線のデバイスなどザフィーラは見たこともないし、そもそもデバイスについて詳しい知識を持っていないアリシアにはサッパリ意味の分からない品であった。
「これは試作型マッサージデバイス『トントン』だ」
「マッサージデバイス――」
「――トントン?」
二人して首を傾げる。 当然だ。 魔導師の杖であり武器であるデバイスとマッサージという単語が常識的に考えて致命的な程繋がらないからである。
「簡単に言うと、電源から電力を得てそれを魔力に変換してオート機能でフィールドを発生させて、そのフィールドの圧力でマッサージの効果を装着対象者に与えるためのデバイスなのだ」
「へぇぇ……」
「またけったいな物を……」
アリシアは単純に感心し、ザフィーラは苦笑いでそのブツを見る。 が、ふとザフィーラの顔色が変わった。
「まさか、これは……”向こう側”の技術を使っているな!?」
「うむ、その通りだ」
満足げに頷くクライドに対してザフィーラは思わず眩暈のようなものを感じた。 思わず子狼フォームの前足で額にちょこんと手を当てたのは言わずもがなである。 何故、どういう理由で、伝説の都たるアルハザードの技術を使ってこんな”しょうもない”物を作るのかサッパリ彼には分からなかった。
(何故戦闘用ではなくてマッサージ用のデバイスなのだ? それほどにアルハザードでの技術習得が困難で、マッサージでも受けなければやってられない程疲弊しているのか元主よ――)
そこはかとなく生活臭が漂ってくるそのデバイスに大して、ザフィーラは呻く。 だが、作った本人は自信満々の笑顔である。 今の俺の最高の仕事だと、その黒眼が言っていた。 ますますザフィーラは困惑の度合いを深くする。 思わず心配の言葉が漏れていた。
「元主よ。 その、なんだ。 そんなに向こうでの研究に疲れているのか? だったら、こちらで少し休暇でもとればどうだろう」
「んー、根詰めすぎて疲れることもあるが基本的に面白いから当分その予定は無いが……そうだな。 気晴らしもいるだろうし二、三日こっちで厄介になってもいいかもな」
「ああ、そうした方が良いだろう。 今夜はちょっと邸内のバーにでも飲みに行こう。 今日はこちらに泊まって行くと良い。 その後で少し、久しぶりに腕を振るおう」
「悪いなザフィーラ。 ん……急な予定もないしな。 久しぶりに男同士で一杯飲むか」
「もしもーし。 ねぇ、私も一緒してもいいかな?」
「むぅ……しかし、お酒は二十歳になってからだぞ」
「うぅー、お兄さんもそうやって禁止するの?」
「一応は、な。 それに、実は俺、あんまり酒の味が分からないんだ。 長くは飲めない」
「そうなの? お酒は弱いんだ」
「いや、元主の場合は酒に弱いのではない。 それで満足できないから苦手なのだ」
「どういうことかな」
「飯を食うなら腹いっぱいにならないと気がすまないタイプなんだよ。 だから、酒を飲み続けて腹を満たす感覚が生理的に嫌なんだ」
「一応、私が料理でも振舞おうかと思っているがな」
「へぇぇ……」
酒の飲み方も人によって様々だ。 クライドにとって酒とは、食欲を促進させるスパイスでしかないのである。 故に、致命的に酒だけを楽しむという行動が苦手だった。 勿論、人に合わせて我慢することもできるが、態々知り合いと楽しくやるのに我慢などする気は無いのであった。 ザフィーラはそのことを知っているので、特に気にはしない。
「じゃあ、お兄さんとはロマンチックにお酒が飲めないんだね。 残念」
「酒でロマンチック……か。 ああいうのは、良く分からんな。 良くドラマとかでやってるような感じは現実にやるのは俺にはキツイ。 ただ、やってみたいことはあるぞ」
「と言うと?」
「よくある奴さ。 カウンターに座って、グラスを磨いているマスターに一言言う奴。 渋い感じがしていいな」
「あ、もしかして『いつもの奴』とか言ってお酒を貰う行動のことかな?」
「それそれ。 あと美人がちょっと離れた席で飲んでたらマスターに頼んで一杯奢る奴とかもやってみたいな。 『あちらのお客様からです』、とかなんとかマスターが言う奴」
「あれ、実際に女の人がやられたら凄く対処に困ると思うよ。 まだそんな人に出会ったことないからわからないけどね」
「アリシアは気をつけた方が良い。 いきなり度数の高いのを無理に進めて潰すのが目的かもしれんからな」
「そうそう」
「んー、でもストラウスさんは笑顔で何杯も飲んで相手を泣かしてたよ?」
「……待て、彼女と一緒に飲みにいったのか?」
「えへへ、カグヤさんも一緒にね。 リニスには内緒だよ」
軽く舌をてへっと出しながらアイドルスマイルでアリシアが言う。 そこでもしかしたら酒の味を覚えてきたのかもしれない。 ザフィーラは思わず眉間に皺を寄せて唸った。
「教育上よろしくないどころか、通報されたらイメージ傷がつくかもしれんというのに、一体彼女は何をやっているのだ?」
「あ、それは大丈夫だよ。 私はミルク飲んでたから」
「それならセーフか」
「それに、ここのバーはお茶とかも出してるから大丈夫だよ」
「バーで……お茶? そうなのかザフィーラ。 俺は行ったことがないからよく知らないんだが……」
「昼間は喫茶店になっているからな。 酒が駄目な者はそういうのを頼むことも可能だ。 ソフトドリンクも普通にある店だ」
「なんだ、じゃあ問題はないな」
「でも、あそこのミルク少し変な感じなんだよ。 飲むと体が妙に火照っちゃうんだ」
「……それ、ミルクはミルクでもカルアミルクなんじゃないか?」
確かにミルクも入っているが、アルコール成分もしっかりと入っている飲み物である。 クライドとザフィーラがそれをミルクだと信じて疑っていないアリシアの無垢さ加減に噴出した。
「話が弾んでいるようですね。 何の話ですか?」
と、そこへティーポッドとカップを持ったリニスが戻ってくる。
「な、なんでもないよリニス。 それよりお兄さん。 私に協力して欲しいことって何かな?」
悪戯がバレまいと必死な子供の図である。 クライドは空気を読んで、本題に入ることにする。 だが、その前にリニスが入れてくれたお茶を一口飲むことは忘れない。
「ども、リニスさん。 で、用件なんだがこのデバイストントンは実はまだ未完成なんだ。 中身に一番重要なデータが無くてな」
「そうなんだ」
「ああ、欲しいデータは人がマッサージしたときのデータなんだ。 トントンには痒いところに手が届く機能として、誰かがマッサージした時のデータを保存して再現できるように作ってある。 でも、それだけだと誰かに一度マッサージしてもらわなきゃならない。 頼む相手がいない一人身だとそれは辛いし、できれば買う人に満足してもらいたい。 そこで、プロのマッサージの人とかのマッサージデータとかをサンプルデータとして取ってから売るという方向性になるんだが……」
「つまり、私がマッサージしたデータも組み込みたいんだね」
「そういうこと。 こんな”デバイス”はまだどこでも売ってない。 消費者にとっては未知数の品になる。 しかし、アリシアちゃんという有名人のデータをつければ付加価値だけでも一定数は売れると俺は睨んだ。 それでまず知名度を上げて欲しい。 後は、プロの人のとか近しい人のデータとか他のサンプルデータを使った人たちが、口コミで広げてくれることを期待する」
要するにクライドはちょっと疲れたときの癒しアイテムにしたいのであった。 出張のお父さんが、出張先で子供に会えないときに使うとか、滅多に孫に会えない祖父が孫に肩たたきをしてもらってる感じを出したいのである。 ただ体が気持ちよいのではなく、心まで擬似的に気持ちよくなってもらいたい。 特定個人のデータを模倣する機能を加えたのはそのためであった。
とはいえ、それもまず買ってもらわなければ実感してもらえない。 商売に連結させるとしたら、それは絶対に頭になければならないだろう。 クライド個人としては完成させることにこそ意義があるが、ストラウスに協力してもらうのだから彼女にとっても美味しいモノでなくてはならない。 そこで、アリシアの力<知名度>が欲しいとクライドは頼んでいるのであった。
「面白そうではありますね。 そのデバイスにアリシアのデータを入れてプレシアに送ってあげれば喜ぶのではないでしょうか。 近くにアリシアがいない寂しさも少しは紛れるかもしれません。 試作品のモニターもまだ決まっていないのなら、彼女に頼めば喜んでやってくれると思いますし」
「ん……そうだね。 面白いとは私も思うけど、お兄さんちょっと提案があるんだけどいいかな」
「ああ、こいつはまだ未完成品だ。 クリティカルな意見は一杯欲しい。 遠慮無く言ってくれ」
「それ、声とか録音はできないのかな? ただマッサージするだけじゃ寂しいよ。 どうせなら一緒に日頃の感謝の言葉とか、普段照れくさくて面と向かって言えないことを伝えるための機能もあった方がいいと思うんだ」
「それはナイスアイデアだな!! ぜひ採用してみたい。 開発部の人にかけあってみる。 それぐらいなら簡単に改造できるはずだ。 とすると、そういう系統の使い道のCMでも提案しとけば面白いことになる……か?」
携帯端末から空間モニターを開き、クライドがそのアイデアをメモする。 いいアイデアだった。 普通の若者はあまりこんなモノに興味を示さないかもしれないが、親孝行したいと思っても、中々気恥ずかしくてできなかった者が手を出すかもしれない。 もはや本当の親も叔父さんもいなくなったクライドだが、アリシアの言いたいことは良く分かるような気がして唸らずにはいられなかった。
ただ機能を作ることだけしか考えなかったクライドは、少しばかり自分が味気ない人間になってしまったように感じてしまう。 だが、アリシアの素朴な優しさに共感できる部分がまだ残っていることに、少しだけ安堵してもいた。
作る側の人間だからこそ、使う側への配慮が欠けていただけのなのかもしれないが、その感覚は覚えておこうとクライドは思った。 普通の戦闘用なら戦術などを考慮してもっと親身になっているところだが、さすがにこれは彼にとっても未知数な方向だ。 けれど、それを言い訳にするようではデバイスマイスターなど名乗れない。
「そうだ。 声を記録するのもいいが、マッサージ中にも声を出せるようにするのはどうだ?」
「『気持ちいいですかー』とか、『凝ってますねー』とか、そういうの?」
「無いよりはいいかもしれませんね。 ただ、そういうのはパターンが限られるでしょう。 多く使う人には逆に興が削がれる可能性もあると思いますが……」
「ん、ザフィーラの案は一応保留にしとくか。 欲しい人といらない人に真っ二つに分かれそうだ。 判断は開発部に投げとくわ。 本物がとても恋しくなるかもだし」
「多分、その認識が正解なんだと思うよ。 トントンはきっとその隙間を埋めるための物ぐらいの意識でいた方がいいのかもしれない。 だって、どんなにデータを真似ても本人が一生懸命してくれるわけじゃないわけだから、本物には敵わないんじゃないかな。 マッサージチェアがあってもプロのマッサージ師が駆逐されたわけじゃないし……」
「道理だな。 温かみが無くただ気持ちいいだけのモノよりも、人はより贅沢な誰かの温もりを欲するものだ。 ご年配の方にマッサージするとして、プロよりも孫が一生懸命に肩叩きしてくれる方が何倍も嬉しいと言う人の方が多いのと同じだろう」
「機能が秀逸でもそれだけじゃ、心には響かないってわけか」
「でも、トントンに記録したデータに込められた思いはきっと本物だよ。 だから、一緒に記録した声がその想いも届けるモノであったらいいなって思う。 言葉という音でなら、トントンでも伝えることができるはずだよ。 音楽……私の歌と同じだね。 一曲一曲に込められた”何か”が、聞いてくれる人に届いてくれたら良いって、そんな風に思って私は歌ってるから。 トントンもそうやって伝えればいいんじゃないかな?」
「うーむ、なんかプロっぽいな」
「ぽいんじゃなくて、プロだもん」
一切の照れなく、アリシアが言い切る。 プロの歌姫としての顔がそこにはあった。 デバイスに対しては一切の妥協したくないクライドと同じで、そこには確かに彼女が持つ歌に対する拘りがあった。
その後、リニスやザフィーラを被験者にしてアリシアがマッサージすることで一同はデータを取ってみた。 クライドはその間終始、デバイスのデータを眺めながら調整を行う。 時折、被験者の意見で修正しながらの作業だ。 より、本物に近くマッサージされる感触を反映するため、アルハザード式のフィールドの魔法術式をこれでもかというほどに弄り倒していく。 その作業は結局、夕方まで続いた。
「失礼します」
「リニスか。 どうかしたのか?」
「アリシアがこんな時間になっても部屋にいなかったので探していたのです、見かけませんでしたか?」
「ああ、アリシアならベッドの上だ。 少しはしゃぎ過ぎたようでな」
「疲れて眠ったということですか? まったく、あの娘はいつまで経っても子供のようです」
「いや、そういうわけではないと思うが……」
単純に酔いつぶれて眠っているだけなのである。 それを子供だと言うのであればそれまでのことだったが、ザフィーラは苦笑しながらリニスを部屋へと通した。
「……ん? お、リニスさんも酒盛りするか?」
ビール瓶を掲げながら、クライドがソファーの上で手招きする。 だが、リニスはそんなことよりも先にアリシアの姿を探し、すぐに見つけて安堵していた。
「まったく、アレほどお酒はまだ駄目だと言っておいたのに。 困った子です」
教育係よろしく、リニスは眉を顰める。 いつまでもザフィーラの部屋で寝かせるわけにもいかない。 寝ているアリシアに近づき起こそうとする。 だが、手を伸ばそうとしたところでザフィーラがそれを止めた。
「リニス、今日だけは眼を瞑っていてやってくれないか? 昼間に、少しあってな」
「昼間に、ですか?」
「ああ。 本当は君やプレシアには黙っていて欲しいと言っていたが、アリシアは昼間に父親と会っていた。 だから、なんとなく飲みたかったのかもしれない」
「なっ――」
普段終始柔らかなリニスの表情が凍る。 ザフィーラにはその表情の意味は分からない。 リニスやプレシアの口から、アリシアの父親のことを聞かされたことなどない。 それはテスタロッサ一家の実にプライベートな事柄である。 親しく付き合いをしているザフィーラでさえ、本来は簡単には踏み込めない領域のものだった。
「……あの男は、何を言っていましたか?」
「特にアリシアに害がありそうなことは何も。 ただ、娘の今を確認していただけのように、私には見えた」
「そう……ですか」
俯きながらリニスは、眠っているアリシアの額に手をやった。 酒のせいで白い肌がほんのりと紅く染まっている。 体も火照っているのか、いつもよりもやや暖かい気がした。
「君も飲んでいくか? 愚痴なら付き合うぞ」
「……私は強いですよ?」
「ふっ。 望むところだ」
「元主、リニスも飲んでいくが構わないな?」
「おおう!! 綺麗な人が増えるのを拒否する漢はいない!! じゃんじゃん誘って来てくれい。 このさいカグヤでもフレスタでもかまわーんん。 あ、でも、ジャージ聖王は勘弁な。 酔いが醒めるーってレベルじゃないぜ」
「彼、すっかり出来上がってますね」
「こうなってからが長い。 普段飲まない癖に、滅多なことでは潰れんのだ。 大抵はこうなるほどに飲まんのだが、アリシアが隣で酌をしていた。 彼女に男らしいところを見せようとしてがんばった結果、こうなっている。 今は理性が飛んでいるから、色々と素直に喋るだろう。 何か聞いておきたいことでもあるならチャンスだぞ」
「別に彼のことで教えて欲しいことはありませんが……付き合いましょう」
ザフィーラがクライドの対面のソファーに座り、クライドの隣にリニスは座った。 テーブルの上にはザフィーラが作ったと思わしき”おつまみ”と”料理”がある。
「よっしゃ、まずは駆けつけ三杯だ!!」
グラスを取り出し、クライドがビールを注ぐ。
「”駆けつけ三杯”とはなんですか?」
「私も良くは知らないが、後からやってきた人間はとにかく三杯飲んでから宴に参加しなければならないという奇妙な風習がどこかの次元世界にあるらしいのだ」
「とにかく酔ってから参加しろということでしょうか?」
「かもしれんな。 ああ、ビール以外にも色々在る。 好きなのを飲めばよい」
「どうせストラウスさんのですしね」
「『好きなだけ飲んでいい』そうだ。 彼女には足を向けて寝られんよ」
「そうですね。 んっ――」
クライドが注いだグラスを手に取り、とりあえずリニスは一気に飲んだ。 気持ちよいぐらいな速度でユウヒスー○ードライのビールがグラスから消えていく。
「おお!? やはり、綺麗な人は皆酒が強いな。 次元世界の女は酒豪ばっかりだ!!」
「おかわりを要求します」
「うーい。 ひっく」
酔っ払い男が酒を注ぐ。 ザフィーラはその姿を見ながら、自分でも空になったグラスにワインを注いだ。 その間もリニスは二杯目を倒し、三杯目に移行している。 本当に酔っ払いの戯言の通りにしようというのだろう。 舌で転がすようにワインを楽しむザフィーラは、なんだかんだといって素直なリニスの様子に苦笑する。 そして三杯目も余裕で飲み干したリニスが、ようやく宴に参加した。
「さて、そろそろ始めましょうか。 まずは苦言からですが、二人とも気をつけてください。 アリシアはまだアルコールを摂取して良い年齢ではないのです。 アリシアの健康が阻害されてしまいます」
「いやー、でもちょっとぐらいならいいんじゃないか? 俺とか、高校ぐらいになったらもう正月には親戚やら親やらから飲まされたぞ」
「『高校』……『正月』? 彼は一体何を言っているのですか?」
「私にもわからんよ。 稀に彼は良く分からない専門用語や、ローカルな次元世界の単語を使う。 私の翻訳魔法でも今のは対応しきれなかった」
そのまま、黒の男は自白していく。 リニスはそれを酔っ払いの言葉として受け流し、ザフィーラと会話することにした。
「まぁ、面白くない話の前座はこの程度にしておきましょうか。 明日に彼が覚えているか謎ですし」
「ああ、それは大丈夫だ。 飲んだ間に起こったことは覚えている。 ただ、今この瞬間の彼はほとんど使い物にならんだろう」
「それは面妖な。 普通は記憶が飛ぶのでは?」
「元々変わり者だ。 酔い方が常人と違ってもそれほど不思議ではない」
「なるほど、それは確かに」
「んでな、リニスさん。 元々田舎って、閉鎖的でああいうときは遠慮が――」
虚空に向かって語りかける男が一人。 その頃には悲しいかなリニスとザフィーラは本題に入っていた。 クライドは放置プレイされた。
「それで、早速本題に入らせて頂きますが、そもそもどうやってアリシアはあの男と連絡を取れたのでしょうか? アリシアは彼の連絡先など知らないはずですが……」
「君が偶々処理しきる前の手紙が、アリシアの元に届いたらしい。 それで、彼の存在を知ったようだ」
「そう……ですか。 私の監督不行き届きというわけですね」
「そんなに難しく考えなくても良いのではないか?」
「いえ、普通に彼女に手紙の類を届けることはできないようにしています。 どんな悪意に触れるか分かりませんからね」
「悪意?」
「普通のファンレターの類いなら励みになって構わないですが、常軌を逸する方からの手紙もあります。 奇妙な差し入れなどもゼロではないですから、まずは私が確かめるようにしているのです」
「そうか、芸能人は色々とあるのだな。 私には……到底理解できぬ世界か」
「例えば、アリシアはもう昔ほどモデルやグラビアの仕事はしていません。 ですが、そんな彼女に何を思ったか奇妙な衣類が送られてくることもありました。 無論、私の魔法で発見される前に焼却処分しましたが……」
「……知名度に比例して変な虫も寄ってくるか」
「実力者はストラウスさんの名が持つ力をよく知っています。 アリシアに手を出せば、”経済制裁”を笑って発動させられる彼女の力に躊躇します。 しかし、逆にそのせいでリスクを背負ってでも手に入れたいという人間もいますし、そもそもそんなことさえ考えられない○○○○もいます。 私はプレシアにあの子のことを任されている以上、なんとしてでもあの子を守らなければいけないのです」
「ちなみに、参考までに聞いておきたいのだが何か事件は今まであったのか?」
「二度あります。 公式には出ていませんが、”大馬鹿者”がアリシアを誘拐し、ストラウスさんを脅して身代金を取ろうとしたことがありました。 数秒後にはソードダンサーに切り刻まれてその変態魔導師はこの世界から存在がロストしましたが。 まずはそれが一回で、二回目はお忍びで街に出ていたアリシアを”そっくりさん”だと思って力ずくでモノにしようとしたギャングがいました。 そちらは後をつけていた私と相談に乗ってくれたソードダンサーとで組織ごと殲滅しました。 ちなみにそのギャング、ヴァルハラで麻薬を使って一旗上げようとやってきたおのぼりさんだったようです。 巻き込まれた子分の人たちが可哀想でしたが、見せしめは必要です。 全員ヴァルハラ軍の演習相手として”引き取って頂きました”。 今頃はゴム弾と非殺傷魔法を毎日のように浴びる敵役に併走しているしょう。 それが終わったら牢獄のデザートも用意されていますので、快適な一生を送れますね」
「……裁判とかそういうのは無かったのか?」
「ヴァルハラで起こったことですから。 ストラウスさんが処理してくださいました。 話を聞いたここの王族の人は、麻薬の流入を防いだこともあってか良くやってくれたとストラウスさんをべた褒めです。 ”アリシアのサイン色紙”片手に、皆満足げなご様子でした」
「うぬぅ……このヴァルハラに、法は無いのか」
「ありますが、ストラウスさん自身が超法規的存在として君臨しているのが現実です。 あの人が仮に裁判などをして負けることがあるとすれば、それは”労働基準法の無視”だけでしょう。 サービス残業による労働時間圧倒的超過以外での隙が残念ながら見当たりません。 王族の方が言うには、ヴァルハラの全軍合わせた戦力よりもあの方の”一人”の方が怖いそうです。 それと、これはソードダンサーが仰っていたのですが、ストラウスさんにも奇妙な届け物が大量に届くそうです。 危ないものは爆弾からヒットマン、イタイ恋文までそれこそ一杯だそうですよ。 有名人は大変です」
「そういえば、この前に男が一人不法進入してきたな。 私が深夜の見回りをしているとプライベート区画へ見かけぬ男がやって来たのだ。 とりあえずフリーランスの魔導師が間違ってきたのかと思って尋ねてみたら、いきなり抜き打ちで魔法を使われてな」
「そんなことがあったのですか。 大丈夫でしたか?」
「ああ、幸い抜き打ちだ。 大してタメも無かったせいで、それほど強力な魔法ではなかった。 とはいえ、私は咄嗟にシールドでその魔法を防いだ。 防いだんだが、その瞬間弾き飛ばした砲弾が消滅せずに床にバウンドして屋敷内を無作為に反射していった」
「弾丸が反射したのですか」
「ああ、どうやら反射砲撃の類だったようだ。 シールドを前方に張ったから、反射させて後方から私に攻撃しようとしたのだと私は一瞬思ったが、相手もさすがにプロだ。 攻撃するほんの少し前に、執務室から出来てきたストラウスの姿が見えていたのだろう。 さすがに、私も気づくのが遅れてな。 まずいと思って魔法の準備をしたんだが、ストラウスに当たる寸前に砲弾は消え、振り返った私の背後でいつの間にか”砲撃を放った相手が倒れていた”」
「それは……つまりどういうことです?」
「その男はどういうわけか自分の”撃った弾”にやられたのだ」
「……はぁ」
リニスは思わずザフィーラの言葉に首を傾げた。 酔っていてザフィーラが変なことを言っているのかとも思ったが、ザフィーラの顔からは酔いなど感じられなかった。 と、その頃になってようやく隣の酔っ払いが会話に戻ってきた。
「ひっく。 あー、つまり”旅の鏡”かそれに似た魔法を発動させたとかじゃねーかな」
「”旅の鏡”……とはなんです?」
「私の知り合いが使うベルカ式魔法だ。 簡単に言えば空間と空間を繋げたりする魔法なのだが、かなり専門的で特殊な魔法の部類に入る。 強力な砲撃魔法の使い手と組めば、空間跳躍魔法と似たような攻撃も可能だ。 だが、それとは”違う”だろう。 あの瞬間、確かにストラウスは魔法を発動させていなかった。 類似魔法の類という可能性は無い」
「足元に魔方陣が無かっただけで判断してるんなら、間違いだぞ。 ”アルハザード式”だと魔法陣は任意で消せる」
「その可能性も無い。 魔力の励起反応そのものが感じられなかったのだ」
「んじゃぁ、空間捻って繋げたんじゃね? あるいは気合でワームホール発生させたんだ。 カグヤが”距離”を好き勝手するんだから、ストラウスさんが”空間”を好き勝手できるレアスキル持ってる人でもぜーんぜん可笑しくない。 てーか、あの人も向こう側の人だからもう何ができても不思議なんかないーぜ。 案外、商売の”神様”だったりしてなー。 ひっく」
「それは冗談でもハマリ役過ぎですね」
なるほど、だからストラウスは儲け続けるのだとしたら理由になる。 思わず、想像して納得しかけたリニスだった。 が、クライドの不必要な発言を彼女はしっかりと聞き覚えていた。 すぐにクライドに尋ねる。 酔っている男の口は、大層軽かった。
「ところで、アルハザード式とはなんですか?」
「んー、ベルカ式とミッド式以外の三大魔法の一つ。 多分、触ったら一番面白い奴。 リニスさんやプレシアさんは使ったら病み付きになるかも。 あれ、凝り性な人だと中毒起こす代物だからぁなぁ」
「中毒……危険なのですか?」
「危険度は他の魔法ともそれほど変わらないかなぁ。 ただ、他の魔法と違ってできることが滅茶苦茶多い。 ミッド式とベルカ式でできないことも、アレならできるかもしれんって思えるほどすげー奥深い。 ただぁ、あんまり難しい魔法を作ろうとするととんでもなくプログラム量が増えていったりする。 詳細に術式を記述できる分凝った魔法は難解になって、他の人がものすごく使い難くなるし理解するのにも時間がかかる。 その分自分が使いやすいように弄りまくれるから一番面白いとは思うけどなー」
「……あの、貴方はもう大分酔ってますよね?」
「酔ってないよ。 俺、まだ酔ってないよ。 ひっく」
胡散臭かった。 とにかく胡散臭い話をもっともらしく並べ立てられた。 そもそも、”ひっく”はしゃっくりではないのか? ビール瓶から酒を注ぎ、飲み干すその男。 リニスはやはりスルーすることにした。
「それで……ああ、どういう話をしていましたか」
「危険物とストラウスの話だ」
「ああ、そうでしたね」
軌道修正するザフィーラに頷きながら、リニスは先を続ける。
「とにかく、結論として私が言いたいのは我々が住むこの次元世界にはアリシアにとっての危険で満ち溢れているということなのです。 ええ、それはもう致命的な程にです。 ですが、いくらその危険性をあの娘に説いても、私が過保護過ぎると言って中々聞いてくれないのです。 ……これが、もしかしてあの恐ろしい若者特有の病気「反抗期」というやつでなのしょうか? アレはどんな医者も特効薬を作れない難病だと聞いています。 嗚呼……なんということでしょう。 このままではアリシアが非行に走ってしまいます」
「いや、それは単に一人の大人になろうとしているだけなのではないか」
「大人に?」
「いつまでも子供扱いは嫌だということではないかと思うが」
「しかし、プレシアや私から見ればあの子は事実として子供です。 いつまで経ってもその事実は覆りません」
「それはそうなんだろうが、アリシアからすれば違うさ。 早く一人前になって、君たち二人を安心させてやりたいという想いもあるかもしれん。 リニスがいるから安心だと、プレシアはそう言うのかもしれん。 ”自分”がいるから、アリシアは大丈夫だと君は思うかもしれない。 だが、それではいつまで経っても”アリシアはもう大人”だから大丈夫だという目で見てもらえない。 あの子は、もうそういう目で自分を見て欲しい年頃になっているのだろう」
「自立したい年頃……ですか」
「何でもかんでも自分一人でできるなんて、そんな大それたことは思っていないだろう。 そうではなくて、”できることは”自分だけでして見せたいのだろう。 一人の人間としての矜持は、アリシアにだって当然あるはずだ。 だから、成長したところを見せて君たちを安心させてやりたいのかもしれん」
「しかし、アリシアは現に襲われました。 私には、あの娘の傍にいることでしかあの子を守ることができない。 ”おまもり”もありますが、アレは絶対にアリシアを守れるというわけではないのです。 あの強度なら、中ランク程度の破壊力があれば抜けるでしょう。 あの娘を害する手段などそれこそいくらでもあるのです。 しかも、あの子は性格がら警戒心が薄い。 それが、私は何よりも怖いのです……」
アリシア・テスタロッサは物怖じしない性格である。 それは幼少の頃、周りが大人ばかりだった環境によって形成されたものだ。 そのせいで妙に度胸がある。 ステージの上で歌うことには関して言えば心強い性格なのでまったく問題ではないが、そのせいでややガードが甘いところをリニスは危惧していた。 短所は見方を変えれば長所に化けることもある。 長所は逆に、短所を生むこともある。 例えばすぐに即断できる人間は慎重さが無いとも取れるし、決断力があるとも取れる。 優柔不断な人間は一見ヘタレに見えるが、慎重に物事を考えているとも取れる。 ただ臆病なだけと思う人間も当然いるわけだが、それでも視点を変えれば”そう”見ることもできるわけだった。
「なるほど……リニスの考えも分からないでもないな」
「でしょう? それに、私はプレシアの使い魔なのです。 プレシアとのラインから流れ込んでくるアリシアへの想いが、私には……痛い程に分かるのです」
繋がっているからこそ、その母親の心が何よりもリニスの心に響くのだ。 そして、彼女自身もまたアリシアを我が子のように愛している。 リニスが慎重に慎重を重ねたくなるわけである。 ザフィーラもまた、その特異な感覚が同じ使い魔<守護獣>であるためによく分かる気がした。 だが、だからこそ言った。
「これは昔、元主から聞いた言葉なのだが”獅子は戦神の谷に我が子を落して這い上がってきた子供だけを子にする”という言葉がどこかの世界にあるそうだ」
「それは……また凄まじい言葉ですね。 ”戦神の谷”ですか」
「正確な意味は私にも分からない。 これもまた翻訳が通じない言葉だからだ。 だが、私は今その言葉をアリシアに送るべき段階なのかもしれないとふと思った」
「アリシアには魔導師としての才能はほとんどないのですが」
「いや、これは例え話さ。 実際に戦う必要は無い。 その戦神の谷に我が子を落した獅子だが、別にそれは子供が憎くてやったのではないだろう。 這い上がってきたら子供として認めるのだ。 恐らくは期待しているのだろう。 自ら谷に落したはずの我が子が成長して自分の元に現れるのを、な」
「”戦神の谷”ですからね。 這い上がってきたら、それはそれは逞しくなっていることでしょう」
リニスは想像する。 武器で武装し、魔法を極めたような危険な輩が夜な夜な戦いあっている谷を闊歩しながら帰ってくるアリシアを。 プレシアがそんな危険なところにアリシアを落すシーンだけは想像ができなかったが、それでもザフィーラが言いたいことはなんとなく分かった。
ザフィーラはアリシアが成長しようとしているのだから、暖かく見守ってやってくれと言いたいのだろう。 ザフィーラはリニスたちの想いに共感こそすれ、否定する気はない。 ただ、成長しようとする意思だけは汲んでやって欲しいのだった。
空になったグラスに、ザフィーラがワインを注ごうとワインに手を伸ばす。 が、その左手がワインの瓶を掴む前にリニスが手に取った。
「どうぞ」
「かたじけない」
アリシアの瞳のように紅いワインが注がれていく。 それを無言で眺める二人の隣で、そのアンニュイな雰囲気をクライドのイビキがぶち壊す。 いい加減限界を超えて飲みまくっていたのだから、それは当然だったのかもしれない。
「彼は、お酒の席にはとことん向きませんね」
「理性が残っている内限定で言うなら、そうでもないがな。 アリシアに潰された格好付け男の末路だ。 この調子でアリシアには潰される前に潰すことを練習させればいい。 彼は基本的に無害な男だし、格好の練習相手になるぞ」
二人して目をやると、その男はソファーの後ろにもたれ掛って完全にダウンしていた。 グラスと瓶から手を離していることだけはさすがだったが、それだけだ。 それ以外では完全な駄目男になっている。 と、そんな駄目男がいる部屋へノックの音が響いた。
「今日は先客万来だな」
冗談めかしてそういうと、ワインに口をつける前に席を立ち来客を向かえに行く。 扉の先にいたのは、グリモアであった。
「どうも、室長を回収に来ました」
「ああ、今潰れたところだ。 持っていくなら好きにしてくれて構わない」
「潰れた……あの室長がですか?」
若干の驚きと共に、ザフィーラが視線を向けた先にグリモアが目をやる。 すると、確かにクライドがイビキをかきながら寝ているのが目に付いた。
「ボクには信じられません。 ここまで酒の席で無防備になったことなんて今まで無かったのに……」
「”君”と”彼女”の前では潰れんように控えめにしていたのだろう。 酔っ払い男は嫌われるのが世の常だ。 それぐらい、元主も考えていただろうさ」
「……まあ、いいです。 とにかく回収していきますよ」
「ああ、好きにしてくれ。 君なら彼を任せても大丈夫だろう」
我が子<クライド>を戦神の谷<グリモア>に突き落とす気分でザフィーラは言う。 這い上がってきたときにどうなっているかが実に楽しみであった。
「手伝おう」
「かまいませんよ。 仮初の身体とはいえ、室長の一人や二人運べないような柔な体ではありませんから」
「そうか……では、手が必要になったら言ってくれ」
「はい。 それではおやすみなさい」
「ああ」
クライドを背負っていくグリモアを見送ると、ザフィーラはリニスの待つソファーへと戻る。 リニスは我関せずの構えで飲んでいた。
「待たせたな」
「いえ、それより良かったのですか? あの状態の彼を彼女に任せるのは色々と”危険”な匂いがしますが」
「二人とも大人だ。 何かあっても十分に責任は取れるさ」
「そういう問題ではないのですが。 その……男と女です。 色々とあるのではないでしょうか」
「ああ、だから戦神の谷に落してきたところだ。 ”這い上がってくる”か”谷底に永住させられる”かどうかはこの後の展開次第だろうが、実に楽しみだな」
「驚きました。 貴方は割りと意地悪な狼さんだったのですね」
「色々と彼の成長を期待して見守っているだけさリニス。 さて、続きをしよう。 まだ時間も酒もたっぷりとある。 この際私に全部ぶちまけていくと良い」
「ええ、それではお言葉に甘えさせていただきます」
「そういえば、まだ乾杯をしていなかったな」
「そうでしたね。 何について乾杯しましょうか」
「”次元世界の歌姫”と”ヘタレ男”の更なる飛躍を願って、というのはどうだ?」
「ふふっ、良いですね。 それでは」
「「――乾杯」」
二人してグラスを鳴らす。 グラスの甲高い小気味良い音が、静かな部屋に流れた。 その後、ベッドで寝ているアリシアの話で二人して盛り上がっていく。 優しき使い魔たちの夜は、そうして静かに更けていった。
その日、盾の守護獣は懐かしい夢を見た。 夢の中の彼は、仲間たちと共に誰かのために自らを鍛えに鍛える。 全ては己の主人のために。 それは当時の記憶。 失った時の彼方の煌きである。
流した汗は忠義の証。 身体は盾で、研ぎ澄ました牙と爪は敵を狩る刃。 そうやって杓子定規に与えられた目的を遂行するための機械となることを彼は目指した。 いや、彼だけではない。 それが、そもそもの存在理由のようにさえ感じる者達はただただ時間を積み上げた。 その中には当然苦しいこともあったし、辛いこともあった。 けれども、それ以上に安らげた心地よい時間もまた在った。 優しい、時間が在った。
守護獣はマシン<機械>ではない。 ただの機械のように振舞うことはできても、機械にはなれない。 いつしか皆、その真理へと辿りついた。 その後で、ようやく己に刻まれた契約の意味に気づくのだ。 当然、彼もまたそれに気づき考えを改めた。
――ねぇ、良かったら協力して欲しいことがあるんだ。
対価は、死の先にある刹那の時間でどうかな。
その気があるなら私と、もう一度同じ時間を生きてくれないかな?
選ぶ自由は上げるから、その気があるならこっちに来て。
魔法の奇跡が私たちを繋いでくれるから。
そして、それを境に契約は成った。 世話になった生前の記憶は微かにしかないけれど、それでも死の先に行くことを彼は選んだ。 瞬間、二度目の生が幕を開けた。 ザフィーラが瞳を開く。 すると、太陽の光と共に見下ろす彼女<主>の相貌が露になった。
空は青く、草原では他の仲間が心配そうに見下ろしていた。 水平線が見えるその広大な大地の上で、かつて地を這う獣だった彼は二本の足で大地に立った。 人の視点はいつもよりも高く、彼の主が今度は見上げる側になる。 彼がその違和感の意味を与えられた知識から理解した頃には、金髪の主はクルリと背を向けて歌を歌い始めた。
『――♪』
集まっていた獣たちが、その歌声に引き寄せられるようにして後を追う。 彼も例外ではない。 自然と、足は意識せずとも旋律へ向かおうとする。 それは子守唄であり、集いの歌であり、癒しの歌であり、それは彼らを育てた二足歩行の母の歌だった。 やがて、女性の歌が終わる。 風の音だけが、草原の草を撫でながら歌い続ける。 その中で、ザフィーラはようやく認識を”今”に追いつかせた。
『済まない。 貴女のことを”完全”に思い出すのが少しばかり遅れた』
『お母さんを忘れるなんて、酷い子だ。 メッだよ』
『次があれば一番に思い出そう』
『次なんて君にはないよ。 これが最初にして最後のチャンスなんだからね。 だから――』
『ああ、分かっている。 君に拾われて生かされてきた命だ。 君の望みのために使うことに否はない』
『うわっ堅っ!? 私そんな堅い子に育てた覚えないよ。 もっと気楽に考えてくれたら良いのに……』
『むぅ? とは言われても、私には特にしたいことはないのだ』
獣だった彼にとっては、それこそ本能に裏打ちされた三大欲しか存在し得なかったのだ。 それ以外など、まだこの初めの瞬間には考え付きやしなかった。
『じゃあ、私と一緒に探してみる? 時間はまだあるからね』
『それで良いのか? 私たちの維持には負担がかかるのだろう』
『魔力量を最小にすれば大丈夫。 私は身体が弱いけど、大魔力持ちだから』
『……』
『どうしたの? 急に狼に戻って』
『負担になるのは本意ではない』
『そっか、”君も”優しい子なんだね』
『主を大切にしない守護獣などいない。 先輩方も、だからそうしているのだろう?』
『ふふっ、皆優しい子たちでお母さんは嬉しいなぁ。 じゃあ、行こうか。 自分の名前は覚えているかい? 君の名前は――』
「――”ザフィーラ”。 ねぇ、もうお昼だよザフィーラってば」
「……ん? ああ、アリシアか」
ふと、気が付けばザフィーラはソファーの上で寝ていることに気が付いた。 アリシアが心配そうに彼を見下ろしている。 上体を起こし、ソファーに座りながら周囲の様子に目をやる。 テーブルの上に在ったはずの料理やアルコールの空瓶たちは、どういうわけかなくなっていた。
「テーブルの上、片付けてくれたのはアリシアか?」
「半分はね。 リニスと一緒に片付けたんだ。 はい、お水」
「そうか……ん、ありがとう。 ……待て、リニスとだと?」
「うん。 一番最初に起きたのは私なんだけど、片付けてたらリニスも起きちゃって……」
「ほう……」
「私もびっくりだよ。 いつもは『それは私の仕事なのです、アリシアは休んでいなさい』って言うのにね」
ザフィーラはその言葉を聞くと、軽く苦笑しながらコップの水を煽る。 寝起きの水が、五臓六腑に染み渡るのを感じると同時に妙に清々しいものを感じた。
「それで、そのリニスは何処へ行ったのだ?」
「うん、ちょっと母さんに連絡することがあるからって部屋に帰って行ったよ。 なんか、大事な話ができたんだって」
「そうか。 しかし、だとすると色々と変わるかもしれんな」
「変わるって……何が?」
「なに、それはすぐに分かるだろう。 アリシアは今、”戦神の谷”の中にいるのだからな」
「……谷? ここ、ストラウスさんの家だよ。 もしかして、まだザフィーラ酔いが抜けてないのかな」
小首を傾げる少女の困惑をよそに、ザフィーラは台所に向かいもう一杯水を飲む。 すると、確かに洗い物の類がキチンと処理されているのに気が付いた。 恐らくはアリシアは水を拭かされた程度だろうが、それでも何もさせてもらえなかった程の過剰なそれが無くなったのであれば、大した進歩である。 そのうち、彼女たちが二人仲良く料理などをする日も来るのかもしれない。 そう思うと、やりたいことが一つできたことにザフィーラは気が付いた。 思わず、ソファーのところに居るアリシアに声をかけていた。
「アリシア、今度私やリニスと一緒に料理でもやってみるか?」
「教えてくれるの? 前は包丁が危ないとかってリニスに言われて諦めてたのに」
「なに、彼女の説得は任せておけ。 私がなんとかしよう」
「やった!! じゃあ楽しみにしてるね」
大喜び様子である。 やはり、色々と自分でやってみたい年頃になっているのだろう。 反抗期だなどとリニスは警戒していたようであるが、アリシアからはそんな不穏な空気は感じられない。 チャレンジ精神旺盛なのは良いことだ。 そんな風に考えながら、ザフィーラは頼もしげに笑うのであった。
やりたいことなど、それこそ無かった。 ただの”獣”にはそう思う心がない。 しかし、人工魂魄を与えられた彼らはマシンではいられない。 期間限定の都合の良い道具に成れても、それでも道具のままではいられない時がやってくる。 ザフィーラは、そういう意味では恵まれていた。 ミッドの使い魔などは短期使用のために造られることが多いというし、契約の仕方次第ではそう考える暇なく消費されることもある。 だが、彼は違うのだ。 そのことを、自身で良く理解しているが故にザフィーラは今日も”良い狼”になる。 まだまだ危なっかしい金髪の少女が居る。 ならばこの屋敷を離れることは彼にはできない。
――だから、彼に与えられた”死の先の日々”はまだ終わらない。